人生入門

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

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西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
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ソクラテス

 池田晶子の「無敵のソクラテス」を読んでいる。結構面白い。僕はソクラテスが好きだ。僕はソクラテスになりたい。
 ソクラテスの無知の知は2000年前だけに当てはまるものではない。全くそうではない。近代的な進歩観で眼が曇っている人は、自分たちはソクラテスよりも賢いと思っているだろうが、全く違う。ソクラテスより賢い人は、当時のアテナイにも、現代の日本にも存在しない。それは、彼が「何も知らないことを知っている」からだ。
 この「何も知らないことを知っている」という文句は、聞き飽きたという人もいるだろう。無知の知と言えば、いろんなところで見る。けれども本当にこの言葉の重みを知っている人がどれぐらいいるだろうか。科学が進歩したのだから、当時のアテナイの人よりは賢いだろう、これだけ本を読んだのだから人より賢いだろう、これだけ人生経験を積んだのだから子供より賢いだろう、本当にそうだろうか。

 ソクラテスはデルフォイの神殿の「ソクラテスよりも賢い人はいない」という神託を確かめるために、賢者と呼ばれている人を訪ね歩いた。その結果、誰も「善」や「徳」や「正義」についてほとんど何も知らないことを知った。
 本当の「善」を知っている人がいるだろうか。日本で知識人ぶっている人に、「究極的な善とはなんですか」と聞いてまわるソクラテスになりたい。
 僕は、「何も知らないことを知っている人」になりたいと思う。僕は少し、自分を買いかぶっている部分がある。「さかしら」という言葉がちょうどいい。僕は何も知らない。ポーズではなくて、本当に何も知らない人になりたい。

 無知と、絶対知は、同一であると思う。無限小と無限大は矛盾的統一にあると、中世の哲学者のクザーヌスという人が主張したらしい。大乗仏教では、生死即涅槃、煩悩即菩提、というところだろう。何も知らない人が一番賢いというのは、本当にイロニーだ。
 ソクラテスは無敵である。だって何も知らないのだから。

比較

われわれはだれでも世界と一緒に生まれ、世界と一緒に死ぬ。めいめい持っている世界はちがうのじゃから。——————澤木興道

 一人一つの宇宙を持っている。一人、というのも正確ではない。生命あるもの全て、ミミズ、オケラ、アメンボ、木、もしくは国土。草木国土悉皆成仏。普通の言葉で言えば「こころ」バークリー流にいえば「精神」唯識仏教風に言えば「阿頼耶識」、これらの心的なものは、端的に宇宙である。
 あなたが死ねば、世界はなくなる。あなたが生まれたから、世界が生まれた。ショーペンハウアーは、「世界」が生まれたのは、客観的物質世界に「眼」を持った生物が生まれたときだと考えた。「主観」がなければ「宇宙」は存在しないからだ。

 ネット上で嫌いな奴がいるんだけれど、そいつが僕に「誰かと全く同じ景色を見たい。そのために生きて、音楽をしている」と言っていた。その時に僕は「同床異夢って言葉知ってる?仏教の言葉なんだけどね、同じベッドに入ってても同じ夢は見れないって意味だよ」と言ったんだけれど、相手は全く理解していなかった。例え、同じ場所、同じ時間に富士山を見たとしても、その時の体調、富士山に対する知識、気分、などの要因で、同じ富士山を見るのは不可能だ。同じベッドに寝ていても、違う夢を見ている。

 人生は一つの夢である、と考えよう。夢と夢は通約不可能である。形と音が比べられないように、僕の夢とあなたの夢は比べられない。あなたの景色を僕が見ることは端的に不可能だ。

 人生は一つの小説である、と考えてもいい。それらは独立した本であって、比較することはナンセンスだ。だって、僕は僕の小説しか知らないのだから、他人の小説と僕の小説を比較することは不可能だ。もし、神のごとき「読者」が存在していて、「この小説はつまらない」「あの小説は面白い」と判定することができるならば話は別だが、その存在を僕らが知る由はない。僕らは徹頭徹尾、自分の小説の内にしか存在できない。「比較」する「権利」があるのは、小説の中のキャラクターである僕たちではない。比較する権利があるのは、各々の小説を読む、神だけである。

 「僕の小説」の登場人物に「あなた」が出てくる可能性があるけれど、それは「あなた」であって、「あなたの小説」が出てくるわけではない。「僕の小説」の中で「僕」と「あなた」を比較することは可能だけれど、それは「僕の小説」と「あなたの小説」を比べることとは全く違う。

 人間は、世界を持って生まれる。夢の中で生きている。誰も比較することなんかできない。僕はあなたではない。僕は、僕だ。

 人間は嘘をつく。嘘をつかないのならば、モーセやブッダの戒律はいらない。
僕はそもそも、言葉というのは嘘をつく道具だと思っている。言葉とはなんですか?と聞かれたら、「嘘をつく道具です」と答える。嘘の程度が違っているだけで、言葉は全て嘘だ。

 いちいち例示するのが面倒なので、具体的な例は挙げないけれど、人間は性欲と食欲と名誉欲で構成されていて、その欲望が「音」「文字」になったものが「言葉」である。けれども人間は、異性相手に「ヤりてえ」と言わずに「奢るよ」と言うし、「金が欲しい」の代わりに「世のため人のため」と言うし、どうしようもない。自分で自分の言葉を反省してみてほしい。全部嘘だ。
 やっぱり一つだけ例を挙げると、僕はさっき父親から「今日は節分だから手巻きだよ」と言われたときに「リビングで食べるの面倒だな…」「手巻きあんま好きじゃないんだけどなあ…」と思ったけれど「分かった」と言った。

 見事に全部嘘である。言葉は嘘をつく道具である。僕は自分が嘘しかついていないという自覚がある。
 昔読んだ話。第二次世界大戦中に、イギリスのナントカテレビのニュースが、めちゃくちゃ情報の質が高いということで、他国もそのニュースを信用して作戦に組み込んでいた。けれどもここ一番というときに、イギリスがフェイクニュースを流して、それに騙されたどこかの国が大敗したみたいなエピソードがある。
 普段から正直な人が嘘をつくのが一番ダメージを与える。だから僕は昔、故意的に「こいつは嘘つきなんだな」と思われるように分かりやすい嘘を友達にいっぱいバラまいていたんだけれど、ただ信用されなくなっただけだったのでやめた。「信用される人物」になるのって怖くないか。僕はいつドでかい嘘をつくか分からない凡夫である。細かい嘘は毎日ついてるけれど。

 仏教は、言葉が絶えた世界を「真如」とする。真如を覆い隠す言葉は「戯論」と言われる。言葉=戯論は、真如=あるがままの世界を覆い隠す、嘘の集まりだ…。

 アイドルとか、政治家とか、表現者とか、そういう公的な嘘は本当に反吐が出る。

 本当に人間が嫌い。誰も信用できない。悲しい。

 坐禅、念仏。「一切の書かれたもののうち、私はただ、その人がその血をもって書かれたもののみを愛する。血をもって書け。君は、血が精神であることを知るだろう。」血で書かれた表現を求めて生きている。血で書け!血で喋れ!僕は無理だけど…。

逃走論

 80年代に、逃走論という本が流行った。ざっくり云うと、パラノ的な生き方をやめて、スキゾ的な生き方をしようと提言している。パラノ的な生き方というのは、農耕民族的な生き方で、一つの場所に定住して、財産を貯めて、安定した生活を送る、という生き方。スキゾ的な生き方というのはその真逆の狩猟民族的な生き方で、一つの場所に定住せずに放浪して、貯金などもせずに、その日暮らしをする、という生き方。今でも「ノマド」と言われる人々がいるけれど、そういう生き方の思想的源流である。(逃走論は7年前ぐらいに読んであやふやなので間違ってたらごめんなさい)

 最近はなんやかんやあって社会についてよく考えているんだけれど、この現代日本社会の一番の問題は、なんといっても「格差」である。金持ちの親からは金持ちの子供ができる。貧乏人の子供は貧乏になる。パラノ=資本の貯蓄は格差を産みだす。格差社会について論じてる本はいっぱいあるのでそれを読んでほしいんだけれど、まあ、格差が存在するのは事実である。

 この「格差」の一番の問題点は、僕は「劣等感」だと思う。「なんであいつは」「なんで俺は」「派遣の俺は」「高卒の俺は」「慶応のあいつは」が問題である。格差のある2人がいるとしても、2人とも現に食っていけてるわけだから、「格差」は「心の問題」に還元したほうが、幸福について考えるには便利だと思う。キツイ仕事して低賃金の人もいるし、なんもしないでも金が入る人はいるわけだけれど、海外のインセル事情とかネットの怨嗟とかを見てると、そういう体力的な、ブラック企業的な問題は、現に存在してるにしても、「不幸感」を創り出すのかどうかは、僕は判断できない。
 僕たちが生きている間に格差がなくなることはないだろう。逃げなきゃ。社会で戦うのはやめよう。

 「平等」ではないという「事実」が問題なのではなくて、「平等」ではないという「意識」が問題なのだとあえて言いたい。いろんな人から観念的すぎると怒られるかもしれないけれど、そうではないと「逃走」はできないと思うから。

 最初に書いた逃走論の問題は、「ノマド」として生きるのには、「才能」が必要だということに尽きる。文才があれば、寺山修司みたいにペン一つで放浪することもできる。適当に稼ぐ能力があれば、そういう生き方も可能なんだろう。けれどもそれは僕らみたいな「無能」には不可能だ。「無能」にも使える「逃走メソッド」が必要である。

@「今ここ」に逃げる。

 初期仏教や、今ここ系スピリチュアル界隈で、「今ここに逃げる」などというと、ぶん殴られるだろうが、僕はそれでも「逃げる」と言う。だって無能な僕らを見下してくる社会はクソだから。
 具体的に言うと、坐禅や瞑想である。呼吸に集中しているとき、何かの音に集中しているとき、「思考」はなくなる。「思考」のない状態を「今ここ」という。「今ここ」にある何かしらの五感に集中している最中は、「不平等」は存在しない。「呼吸」のみが存在している。「不平等」から「呼吸」に逃避しよう!
 ついでに、瞑想を続けていると脳みそが変化して、幸福を感じやすくなる。

A宗教に逃げる

 宗教って弱い人がするもんなんでしょ?そうです。宗教は弱い人がする。鎌倉時代には、猟師や商人といった社会的な弱者が、多く浄土教へ帰依した。キリスト教も弱者のための宗教だ。ニーチェは、宗教というのは、現実の弱者が、強者へ精神的な復讐をするために作った、ルサンチマンの賜物である、と言ったが、本当にそうだろうか?別にそれでもかまわないと思う。下にいる人が逃げる場所になれば、なんでもいい。幸せになればなんでもいい。民衆のアヘン(byマルクス)であっても、なんでもいい。
 信仰は、幸福感を増幅させるという科学的なデータがある。僕は自分でもこの実験をしてみたけれど、確かに「超越者」と繋がっているという感覚は、幸福感を増幅させる効果がある。強者共が知らない、この無料で最強のアヘンをみんなで吸おう。

B初期仏教、ストア哲学

 こういった哲学は、富や名声を軽蔑するという特徴がある。そういったものに「執着」しても、幸福にはならない。これらの主張は現代の科学でも実証されている。人間は、何かを手に入れたり、達成したりしても、「幸福」にはなれない。達成する直前、脳内にドーパミンが出て快楽を覚えて、そのあとは、空虚感だけが残る。何かを手に入れても、「心理的適応」という心の傾向によって、それは「当り前」のものになり、幸福感を惹起するものではなくなる。多分、僕たち無能が羨んでいるあいつらも、そこまで幸福ではないんじゃないか?永遠に車輪を回すハムスター、エサをぶらさげられた馬。「成功中毒」になっているバカ共を僕たちで笑おう。こういう価値観をインストールする。オススメは初期仏教とエピクテトス、あと老荘思想。

 他にも、逃走用メソッドは探せばたくさんあると思う。学校で教えないだけだ。僕ら無能は、勝ち組に見下されるだけの人生でいいんだろうか。
 とっとと逃げよう。とかく現世はくだらない。

 

反出生主義

 今日Twitterで、男子高校生の反出生主義者を見た。悲しかった。その子によると両親は「無知」によりその子を産んだらしい。のちのちは、人類は滅亡したほうがいいと言っていた。
 僕は、反出生主義については、共感も覚える部分もあるし、受け付けない部分もある。「どうせ死ぬのになぜ産むのか」というのは常々考える。昔、一度、両親と喧嘩したときに、「なんで僕のこと産んだの?」と聞いたら「欲しかったから」「本能」と答えられて、やるせない気持ちになったのを覚えている。当時、僕はうつ病だった。「なぜこんな苦しい世界に産まれたのか?」という切実な疑問に「親の本能」という即物的な回答が返ってきて、苦しかった。今年の3月には、姉に、子供ができるらしい。その報告を聞いたときも、「結局死ぬのになぜ産むんだろう」と思った。母親が死んだときに、「人って死んだらどこに行くと思う?」と姉に質問すると、「分からない」と言っていた。

 反出生主義の一番の論点は、「産まれてくる子供の同意がない」という部分である。芥川龍之介の河童という短編小説には、産道から、子宮にいる赤ちゃん河童に、産まれたいかどうか尋ねて、OKという返事があったら産むという世界が描かれている。反出生主義者も、現実世界が、こうなっていれば出生に納得できていたのだと思う。「産まれてくる子供の同意がないのに、なぜ親は産む権利があるのか?」反論者は、これに回答しなければならない。

 産まれてきた子供が、「生まれてきてよかった」と感じることもあるだろうから、という反論は成り立たない。その逆の可能性もあるからである。そんな博打を「同意抜き」で「他人」に行うのは、非倫理的である。

 僕は哲学者ではないので精緻な反論はできないけれど、僕がこの反出生主義者に反論するならば、完全な「生命賛歌」を行う。それしか思い浮かばない。無条件な生命の尊さ。学校では「生命は尊い」と教わるけれど、実感として、それが分からない人が、反出生主義者になるのだと思う。
 反出生主義者が、「なぜ生命は無条件に尊いのか?」と問うならば、僕は「それは仏の命だから」と答える。ほかにも生命礼賛の方法、例えばベルクソンの生の哲学とか、ニーチェの力への意志とか、他に答える方法はあると思うけれど、僕はこれが一番しっくりくる。これは道元禅師の言葉である。「この生死はすなわち仏の御いのちなり」。この人生は、自分の「いのち」ではないんだ、仏に包まれたいのち、いや、仏のいのちそのものなんだなと実感できたとき、「無条件で生命は尊い」という主張が(その人にとって)可能になる。この生死はすなわち仏の御いのちなり、至言だ。この「いのち」は、もっともっと大きな「いのち」の一部なんだ…。

 僕は法蔵菩薩の物語を信じている。だから阿弥陀さんというでっかい命の中で生きていることを実感できる。反出生主義者は「そんなものは夢物語だ。迷信だ。」となじるだろう。それはそれでいい。
 僕は、反出生主義というのは、20世紀に生まれた「唯物論」、つまり「死ねば骨になっておしまい」というドグマの上でしか成り立たないと思う。「死ねばみんな仏になる」という前提ならば、子供を産むことは明らかに「善」だろう。僕の「全てのいのちは仏のいのちであるから無条件に尊い。」という主張は、反出生主義者にとって受け入れがたい。ただ、僕は、この主張をすることによって、相手の前提、「死ねばみんな骨になっておしまい」というのが無根拠な信仰であることを示したい。自分の前提に、疑問を持ってほしい。できれば、ニヒリズムという不幸な宗教をやめてほしい。

仏教というものは「ああ人間に生まれてきてよかった」ということを教えるものである。—————澤木興道

差別

 僕はティクナットハンという禅僧が好きなんだけれど、その禅僧が提唱する瞑想法に、こういうのがある。主にパートナーや友達と喧嘩したときに使う瞑想法で、最初に、自分たちの200年後を想像する。この時、どういう精神状態になるか。もちろん200年後において、お互いはこの世に存在しない。だから「今」共在していることが、奇跡のように思える。呼吸をしながら、相手が存在していることの喜びを味わう。喧嘩が終わる。「俺が正しくてあいつがおかしい」がなくなる。結局死ぬのだから、意固地になっても仕方ない。今、共に存在している時を喜ぼう。
 
 みんな死んでいく。自分もあなたもあの人も。めくらもつんぼも乞食も女も男もみんな死んで行く。人間は「絶対的な弱者」じゃなかろうか。その「絶対的な弱さ」の中の、「相対的な弱さ」を比較してるだけなんじゃなかろうか。明日にでも死んでしまうかもしれないという人間の、自分の、あなたの、あの人の、「絶対的な弱さ」を自覚すれば、「すべては平等」という目を持つことが可能なんじゃないか。人はみな「絶対的な弱さ」の手のひらで踊っている孫悟空ではないのか。
 仏から見れば、人間はみんな凡夫で「かわいそう」な存在である。あの人は「かわいそう」かもしれないけれど、それに負けず劣らず、自分も「かわいそう」である。だって結局死ぬのだから。
 
死という
絶対平等の身にたてば
誰でも
許せる気がします
比べることもなく
抱き合える気がします——————鈴木章子

 

カルト宗教

特定の対象を熱狂的に崇拝したり礼賛したりすること。また、その集団。異端的宗教。

 言うまでもなく、社会はカルト宗教である。金、権力、モテ、容姿、学歴を「無批判」に「熱狂的」に礼賛するカルト宗教である。ホリエモンの新書に「全ての教育は洗脳である」というタイトルの本があったが、全面的に賛成する。山下良道という仏教3.0を提唱しているお坊さんがいるのだけれど、その人は高校生ぐらいで社会の宗教性に気づき、自己の実存とその宗教との乖離を感じて、仏教の道へ入ったらしい。
 今日、新興宗教を脱退した人のYouTubeで、レリジャスハラスメントという言葉を知ったんだけれど、僕はこのレリジャスハラスメントを受けているんじゃないかと思った。勤勉で優秀な人に価値がある、モテる男に価値がある、イケメンに価値がある、高学歴に価値がある、死ぬまで楽しく生きよう、そういう教義を押し付けてくる人間が多すぎる。みんな、生まれつき洗礼を受けているので、「無批判」にそれが正しいと思っているのが怖い。

 けれど、このカルト宗教には決定的な弱点がある。それは「救い」がないということ。いくら金を稼いでも人間は死ぬ。キルケゴール風にいうと「絶望を意識しないという絶望」を生きている。脱出する方法を考える。

 別の宗教に改宗するのが一番手っ取り早い。けれどもこのカルト宗教の中にいる間は、自分が正しいと思っているので、なかなか改宗できない。2つ道があると思う。それはこのカルト宗教の中で徹底的に成功すること、もしくは失敗すること。OSHOという宗教家の本に、社会で成功した人が宗教を求めることが多いと書いてあった。成功しても満たされないものがあるから、別の宗教に改宗するんだろう。それが一つの道。あとは僕みたいに徹底的に失敗すること。
 別の土地に住むことも、一つの道だと思う。短期間でもいいから、別の宗教=社会の営みに参加することで、自分の宗教と相対化することができると思う。僕はやったことがないけれど。
 「死」を瞑想すること。これはハイデガーっぽい主張だけれど、死を想うことで、非本来的で頽落している状態=大衆性の状態から、本来的な実存を回復することができる。「どうせ死ぬのになぜ生きているのか?」という問いを発する人間は、自然と、既存の、出口のない、答えのないカルト宗教から距離をとるだろう。
好きだよコブタちゃん
でもねあなたたちの方がカルトだってことに早く気づきなよ
そうしないと
かわいそうだけどあなた一生
救われないよ―――-高速回線は光うさぎの夢を見るか?

祈り

 ニヒリズムやメランコリーを売りにしている人間が『祈り』という言葉を濫用しているのをよく見る。この『祈り』に対して、僕は「諦念」「自己の無力さ」というものをビンビンに感じる。どうせ祈っても無駄だけれど「あえて」「祈る」。「神の不在」に「祈る」というのが、ミスマッチで、面白くて、エモいんだろうな。気持ちは分かる。コンクリートの虚無の世界(雨が降っているとなおよい)で、存在もしない、限りなく無に近いような「聖」に祈りを捧げるというのは、ニヒリズムへの限界ギリギリの反抗だと思う。
「拝まない者もおがまれている拝まないときもおがまれている」(東井義雄)

 南無阿弥陀仏は阿弥陀仏が僕たちのことを祈っている言葉である。祈る主体の反転。祈りのコペルニクス的転回のように思う。
 

思想

 僕に思想はない。事実があるだけ。「人間は死ぬ」この一点の曇りもない正真正銘の事実だけが屹立している。この事実に付け加える思想(言葉)は何もない。それでもあえて付け加えるなら「南無阿弥陀仏」の6文字である。
 思想とは「すべて出来上がったうえでの話」でしかない。仏法とは「すべて出来上がる以前」のことである。—————澤木興道

 僕は、人間が生きるのに「思想」なんてものはいらないと思う。プラトンを知らなくても、アウグスティヌスを知らなくても、カントを知らなくても、ドゥルーズを知らなくても、人間は生きられる。リベラリズムがなくても、フェミニズムがなくても、反出生主義がなくても、人間は生きられる。ここまで「思想」というものが大衆化してしまったのはいつ頃なのか知らないけれど、僕の観測している限り、思想というものを日常で振りかざしている人は、基本的に憎悪をエネルギーにして動いている。「オリジナルな思想」なんてものを一個人が創れるはずがないので、誰かが創った思想、言葉を、自分の怨嗟を吐き出す道具にしているのが実情だと思う。現状、「偉そうに何かを言いたいコメンテーター」の道具になっている。
 右翼とか、左翼とか、フェミニズムとか、反出生主義とか、表現の自由とか、そういう社会思想をあまり知らないので、うかつなことは言えないけれど、一つだけ言えるのは、僕にとってそれらの言葉は全く必要ない。「日本人は思想したか?」というタイトルの本があるように、日本人にはそもそも「思想」というものに馴染みがないんじゃないかと思う。そんな偉そうなものがなくても、日本人は立派に生きていた。
 思想とはそもそも「俺が正しくてお前は間違い」という言論体系のことだと思うけれど、極めて西洋的な感じがする。信者/異教徒を峻別するキリスト教の残り香がする。

 生きるのに、論理は必要ない。人間は死ぬ。生まれて病気になって老いて死ぬ。言葉なんかなんの役にも立たない。唯一思想(言葉)が役に立つのだとすれば、それは他者の抜苦与楽の為だと思う。正義を振りかざして気持ちよくなるために既存の言葉を使うのではなくて、他人を幸せにするように言葉を使ってほしい。
 
 元々「生きにくい」や「差別」を無くしてあげたいていう優しい気持ちから産まれているのがそれだと思うので
自分を貫き誰かを苦しめるのなら本末転倒かなと…
根本が正義じゃなくて優しさであって欲しい—————茜さや

自是他非

 一神教は戦争をする。なぜなら「自是他非」の教えだから。自分が正しくて、相手が間違いだという思想が根本にある。
 仏教はこの「自是他非」、つまりエゴを超える教えだ、と一言でまとめても良い。キリスト教と浄土真宗は比較されることが多いが、この「自是他非」があるかどうかが決定的な分かれ目だと思う。
 キリスト教は異教徒を殺す。それは相手が間違えているから。阿弥陀仏という一つの仏を信仰するという一神教的な宗教になった浄土真宗だけれど、根っこの部分に「無我」だとか「空」の思想があるので、異教徒を殺せ、異教徒は地獄行き、とはならない。できるだけ「自是他非」を回避しようとしているように見える。じゃあ自分と違う宗教の人をどう見るかというと、「宿善が到来していない」という。阿弥陀仏に会えるかどうかは、前世の業で決まる。それが足りてないと考えるけれど、いつかはみんな浄土へ行く。

 そもそも浄土真宗は、何かを「信じる」宗教ではない。疑いがなくなる宗教である。疑いがなくなって、「南無阿弥陀仏(お前を救う)」という言葉だけが、残る。南無阿弥陀仏にはからいがなくなる。「南無阿弥陀仏」に疑いがないだけなので、他者からなんと言われようと、何も信じていないので、揺らぐことはない。逆に相手に「信じろ」と迫ることもない。ただ「疑いがなくなってほしい」と思うだけである。

 神は実体的で、仏は無我である。「我」がある神がいると、「自是他非」になるのだと思う。無我は、自他の区別をなくすところに眼目がある。阿弥陀仏に自他の区別はない。

 他宗教の人をどのように見るかは難しい問題だと思う。キリスト教原理主義の人は、異教徒は地獄行きだという。僕はこれはひどいと思う。
 個人的には、浄土真宗の教義に従って、みんなが宿善到来するように見守るか、それともラーマクリシュナの万教同根説のように、全ての神や仏というのは唯一の絶対者の顕現と見るか。
まあなんにせよ、僕はどのような宗教を持っていても、無宗教でも、いつかはみんな救われるのだと思う。法蔵菩薩が全ての衆生を救うという誓いをたてて、その願はすでに成就されて、阿弥陀仏になっているから。
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