逃走論
80年代に、逃走論という本が流行った。ざっくり云うと、パラノ的な生き方をやめて、スキゾ的な生き方をしようと提言している。パラノ的な生き方というのは、農耕民族的な生き方で、一つの場所に定住して、財産を貯めて、安定した生活を送る、という生き方。スキゾ的な生き方というのはその真逆の狩猟民族的な生き方で、一つの場所に定住せずに放浪して、貯金などもせずに、その日暮らしをする、という生き方。今でも「ノマド」と言われる人々がいるけれど、そういう生き方の思想的源流である。(逃走論は7年前ぐらいに読んであやふやなので間違ってたらごめんなさい)
最近はなんやかんやあって社会についてよく考えているんだけれど、この現代日本社会の一番の問題は、なんといっても「格差」である。金持ちの親からは金持ちの子供ができる。貧乏人の子供は貧乏になる。パラノ=資本の貯蓄は格差を産みだす。格差社会について論じてる本はいっぱいあるのでそれを読んでほしいんだけれど、まあ、格差が存在するのは事実である。
この「格差」の一番の問題点は、僕は「劣等感」だと思う。「なんであいつは」「なんで俺は」「派遣の俺は」「高卒の俺は」「慶応のあいつは」が問題である。格差のある2人がいるとしても、2人とも現に食っていけてるわけだから、「格差」は「心の問題」に還元したほうが、幸福について考えるには便利だと思う。キツイ仕事して低賃金の人もいるし、なんもしないでも金が入る人はいるわけだけれど、海外のインセル事情とかネットの怨嗟とかを見てると、そういう体力的な、ブラック企業的な問題は、現に存在してるにしても、「不幸感」を創り出すのかどうかは、僕は判断できない。
僕たちが生きている間に格差がなくなることはないだろう。逃げなきゃ。社会で戦うのはやめよう。
「平等」ではないという「事実」が問題なのではなくて、「平等」ではないという「意識」が問題なのだとあえて言いたい。いろんな人から観念的すぎると怒られるかもしれないけれど、そうではないと「逃走」はできないと思うから。
最初に書いた逃走論の問題は、「ノマド」として生きるのには、「才能」が必要だということに尽きる。文才があれば、寺山修司みたいにペン一つで放浪することもできる。適当に稼ぐ能力があれば、そういう生き方も可能なんだろう。けれどもそれは僕らみたいな「無能」には不可能だ。「無能」にも使える「逃走メソッド」が必要である。
@「今ここ」に逃げる。
初期仏教や、今ここ系スピリチュアル界隈で、「今ここに逃げる」などというと、ぶん殴られるだろうが、僕はそれでも「逃げる」と言う。だって無能な僕らを見下してくる社会はクソだから。
具体的に言うと、坐禅や瞑想である。呼吸に集中しているとき、何かの音に集中しているとき、「思考」はなくなる。「思考」のない状態を「今ここ」という。「今ここ」にある何かしらの五感に集中している最中は、「不平等」は存在しない。「呼吸」のみが存在している。「不平等」から「呼吸」に逃避しよう!
ついでに、瞑想を続けていると脳みそが変化して、幸福を感じやすくなる。
A宗教に逃げる
宗教って弱い人がするもんなんでしょ?そうです。宗教は弱い人がする。鎌倉時代には、猟師や商人といった社会的な弱者が、多く浄土教へ帰依した。キリスト教も弱者のための宗教だ。ニーチェは、宗教というのは、現実の弱者が、強者へ精神的な復讐をするために作った、ルサンチマンの賜物である、と言ったが、本当にそうだろうか?別にそれでもかまわないと思う。下にいる人が逃げる場所になれば、なんでもいい。幸せになればなんでもいい。民衆のアヘン(byマルクス)であっても、なんでもいい。
信仰は、幸福感を増幅させるという科学的なデータがある。僕は自分でもこの実験をしてみたけれど、確かに「超越者」と繋がっているという感覚は、幸福感を増幅させる効果がある。強者共が知らない、この無料で最強のアヘンをみんなで吸おう。
B初期仏教、ストア哲学
こういった哲学は、富や名声を軽蔑するという特徴がある。そういったものに「執着」しても、幸福にはならない。これらの主張は現代の科学でも実証されている。人間は、何かを手に入れたり、達成したりしても、「幸福」にはなれない。達成する直前、脳内にドーパミンが出て快楽を覚えて、そのあとは、空虚感だけが残る。何かを手に入れても、「心理的適応」という心の傾向によって、それは「当り前」のものになり、幸福感を惹起するものではなくなる。多分、僕たち無能が羨んでいるあいつらも、そこまで幸福ではないんじゃないか?永遠に車輪を回すハムスター、エサをぶらさげられた馬。「成功中毒」になっているバカ共を僕たちで笑おう。こういう価値観をインストールする。オススメは初期仏教とエピクテトス、あと老荘思想。
他にも、逃走用メソッドは探せばたくさんあると思う。学校で教えないだけだ。僕ら無能は、勝ち組に見下されるだけの人生でいいんだろうか。
とっとと逃げよう。とかく現世はくだらない。
最近はなんやかんやあって社会についてよく考えているんだけれど、この現代日本社会の一番の問題は、なんといっても「格差」である。金持ちの親からは金持ちの子供ができる。貧乏人の子供は貧乏になる。パラノ=資本の貯蓄は格差を産みだす。格差社会について論じてる本はいっぱいあるのでそれを読んでほしいんだけれど、まあ、格差が存在するのは事実である。
この「格差」の一番の問題点は、僕は「劣等感」だと思う。「なんであいつは」「なんで俺は」「派遣の俺は」「高卒の俺は」「慶応のあいつは」が問題である。格差のある2人がいるとしても、2人とも現に食っていけてるわけだから、「格差」は「心の問題」に還元したほうが、幸福について考えるには便利だと思う。キツイ仕事して低賃金の人もいるし、なんもしないでも金が入る人はいるわけだけれど、海外のインセル事情とかネットの怨嗟とかを見てると、そういう体力的な、ブラック企業的な問題は、現に存在してるにしても、「不幸感」を創り出すのかどうかは、僕は判断できない。
僕たちが生きている間に格差がなくなることはないだろう。逃げなきゃ。社会で戦うのはやめよう。
「平等」ではないという「事実」が問題なのではなくて、「平等」ではないという「意識」が問題なのだとあえて言いたい。いろんな人から観念的すぎると怒られるかもしれないけれど、そうではないと「逃走」はできないと思うから。
最初に書いた逃走論の問題は、「ノマド」として生きるのには、「才能」が必要だということに尽きる。文才があれば、寺山修司みたいにペン一つで放浪することもできる。適当に稼ぐ能力があれば、そういう生き方も可能なんだろう。けれどもそれは僕らみたいな「無能」には不可能だ。「無能」にも使える「逃走メソッド」が必要である。
@「今ここ」に逃げる。
初期仏教や、今ここ系スピリチュアル界隈で、「今ここに逃げる」などというと、ぶん殴られるだろうが、僕はそれでも「逃げる」と言う。だって無能な僕らを見下してくる社会はクソだから。
具体的に言うと、坐禅や瞑想である。呼吸に集中しているとき、何かの音に集中しているとき、「思考」はなくなる。「思考」のない状態を「今ここ」という。「今ここ」にある何かしらの五感に集中している最中は、「不平等」は存在しない。「呼吸」のみが存在している。「不平等」から「呼吸」に逃避しよう!
ついでに、瞑想を続けていると脳みそが変化して、幸福を感じやすくなる。
A宗教に逃げる
宗教って弱い人がするもんなんでしょ?そうです。宗教は弱い人がする。鎌倉時代には、猟師や商人といった社会的な弱者が、多く浄土教へ帰依した。キリスト教も弱者のための宗教だ。ニーチェは、宗教というのは、現実の弱者が、強者へ精神的な復讐をするために作った、ルサンチマンの賜物である、と言ったが、本当にそうだろうか?別にそれでもかまわないと思う。下にいる人が逃げる場所になれば、なんでもいい。幸せになればなんでもいい。民衆のアヘン(byマルクス)であっても、なんでもいい。
信仰は、幸福感を増幅させるという科学的なデータがある。僕は自分でもこの実験をしてみたけれど、確かに「超越者」と繋がっているという感覚は、幸福感を増幅させる効果がある。強者共が知らない、この無料で最強のアヘンをみんなで吸おう。
B初期仏教、ストア哲学
こういった哲学は、富や名声を軽蔑するという特徴がある。そういったものに「執着」しても、幸福にはならない。これらの主張は現代の科学でも実証されている。人間は、何かを手に入れたり、達成したりしても、「幸福」にはなれない。達成する直前、脳内にドーパミンが出て快楽を覚えて、そのあとは、空虚感だけが残る。何かを手に入れても、「心理的適応」という心の傾向によって、それは「当り前」のものになり、幸福感を惹起するものではなくなる。多分、僕たち無能が羨んでいるあいつらも、そこまで幸福ではないんじゃないか?永遠に車輪を回すハムスター、エサをぶらさげられた馬。「成功中毒」になっているバカ共を僕たちで笑おう。こういう価値観をインストールする。オススメは初期仏教とエピクテトス、あと老荘思想。
他にも、逃走用メソッドは探せばたくさんあると思う。学校で教えないだけだ。僕ら無能は、勝ち組に見下されるだけの人生でいいんだろうか。
とっとと逃げよう。とかく現世はくだらない。
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