宗教 疑い
坐禅友達が「疑いが抜けない」と話していた。師匠はマインドコントロールしようとしているんじゃないか、悟りなんてあるのかという疑いが抜けないらしい。疑いについて話したのだけれど、自分なりにまとめる。
疑いというのは「別の可能性もあるかもしれない」ということだ。デカルト的に懐疑すると、目の前の物も夢かもしれないし、数学も悪魔に騙されているのかもしれない、となり、何も信じられなくなる。近代は理性至上主義だが、理性というのは疑いの心である。
「自分一人で救われる可能性」というのは、極めて低いと僕は思う。キルケゴールの「自己自身であろうとする絶望」に当てはまる。自分で「これが真理だ」と独り決めしても、それは自分で作った「恣意的」な砂の城なので、自分で白紙に戻すこともできる。真理というのは「伝統」の重みでしかあり得ない。
そもそも、疑いがなくなることが救いである。「イエスを信じるだけで良いんだろうか」「念仏一つで救われるんだろうか」という疑いがなくなり、決定(けつじょう)するのが救いである。それまでは迷える子羊、迷情の凡夫である。ああしようか、こうしようか、と迷っている意識が断ち切れ、坐禅一つ、念仏一つに決定(けつじょう)するのが救いである。
例えば自分で作った「ホニパッパ」に疑いがなくなれば、それはそれで救いだろうが、ホニパッパに疑いが晴れることはないと思う。「自分が作った物」というのは、自己よりも小さい。自分の支配下にあるものを仰ぎ、信じるというのはあり得ない。
南無の心がない限り、僕は救われないと思っている。南無釈迦牟尼仏
疑いというのは「別の可能性もあるかもしれない」ということだ。デカルト的に懐疑すると、目の前の物も夢かもしれないし、数学も悪魔に騙されているのかもしれない、となり、何も信じられなくなる。近代は理性至上主義だが、理性というのは疑いの心である。
「自分一人で救われる可能性」というのは、極めて低いと僕は思う。キルケゴールの「自己自身であろうとする絶望」に当てはまる。自分で「これが真理だ」と独り決めしても、それは自分で作った「恣意的」な砂の城なので、自分で白紙に戻すこともできる。真理というのは「伝統」の重みでしかあり得ない。
そもそも、疑いがなくなることが救いである。「イエスを信じるだけで良いんだろうか」「念仏一つで救われるんだろうか」という疑いがなくなり、決定(けつじょう)するのが救いである。それまでは迷える子羊、迷情の凡夫である。ああしようか、こうしようか、と迷っている意識が断ち切れ、坐禅一つ、念仏一つに決定(けつじょう)するのが救いである。
例えば自分で作った「ホニパッパ」に疑いがなくなれば、それはそれで救いだろうが、ホニパッパに疑いが晴れることはないと思う。「自分が作った物」というのは、自己よりも小さい。自分の支配下にあるものを仰ぎ、信じるというのはあり得ない。
南無の心がない限り、僕は救われないと思っている。南無釈迦牟尼仏
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