親ガチャ
僕の知り合いに、震災で父親を亡くして母親からネグレクトを受けていた人がいるが、その人から親への怨嗟の声を聞いたことがない。母親から虐待され、父親からも構ってもらえなかった知り合いもそう。僕は母親から発達障害を貰い、その地域から高学歴になる人がゼロの地域に生まれ、肺を患い、父親は仕事ばかりで、母親は若死にして、保育園で虐待にあい、家族関係は順風満帆ではない。が、僕の人生に「親ガチャ」という言葉が必要ない。
「親ガチャ」という言葉は「業」という言葉と同じく、悪い意味で使われる。「逃れられない運命」という言葉がなぜか悪い意味で使われがちなのは面白い。きっと他責思考の人が作った思想なのだろう。
しかし本来の仏教は「業」が悪いので諦めましょうという教えではなく、これからよい業(行い)をして、未来をよくしていきましょう、という思想だ。非常に合理的だと思う。自分の今の過酷な境遇は「自業自得」として受容できるし、未来への希望も持てる。「他責」をすると幸福になれないということをインド人、釈迦は知っていたのではないかな。(一歩間違えれば差別思想になるが、釈迦は他人の行いを見るなと言っている)
親ガチャには「前世」という概念がないために、全て親に責任や憎悪が向いてしまう。「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」というのは端的な真理だし、優れた幸福論と思う。
「親ガチャ」は存在するか、みたいな議論は不毛だと思う。それよりも「俺の人生に親ガチャという概念は必要か?」と考えた方がいいと思う。僕はこの概念は憎悪という不幸を作るだけだと信じているので必要ない。
「親ガチャ」という言葉は「業」という言葉と同じく、悪い意味で使われる。「逃れられない運命」という言葉がなぜか悪い意味で使われがちなのは面白い。きっと他責思考の人が作った思想なのだろう。
しかし本来の仏教は「業」が悪いので諦めましょうという教えではなく、これからよい業(行い)をして、未来をよくしていきましょう、という思想だ。非常に合理的だと思う。自分の今の過酷な境遇は「自業自得」として受容できるし、未来への希望も持てる。「他責」をすると幸福になれないということをインド人、釈迦は知っていたのではないかな。(一歩間違えれば差別思想になるが、釈迦は他人の行いを見るなと言っている)
親ガチャには「前世」という概念がないために、全て親に責任や憎悪が向いてしまう。「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」というのは端的な真理だし、優れた幸福論と思う。
「親ガチャ」は存在するか、みたいな議論は不毛だと思う。それよりも「俺の人生に親ガチャという概念は必要か?」と考えた方がいいと思う。僕はこの概念は憎悪という不幸を作るだけだと信じているので必要ない。
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