仏教とは認知療法である
仏教と認知療法の相似性はよく指摘されるが、マインドフルネスが認知の歪みを治す、程度のものであまり本質から語られているものを見たことがない。
人間は、生まれつき認知が歪んでいる。この歪みのことを常見という。死後も永遠に生き続けるという意味だが「自分も物も全て永遠である」という捉え方でいいと思う。いや、そんなこと思ってないよという人も多いだろうが、本当に自分が死ぬと思ってるだろうか?家族が死ぬと「心から」思っているだろうか?知識や教養は永遠だと思ってないだろうか?
この「物には実体がある」という「認知の歪み」を推し進めたのが西洋哲学であるが、その結果人類は不幸になっている。「形あるものは壊れる」と「頭」では分かっている人が多いだろうが「心から」分かっている人はいない。
「自己」も「恋人」も「金」も「地位」も全て「壊れる」のが「事実」なのだから、執着すれば、「必ず」裏切られて、苦しむ。この認知の歪みは生物学的なものだと思われるので、相当根深い。
釈迦の説法を聞いただけで解脱した人々が説かれているが、これは本当だと思う。釈迦というカリスマが「この世は無常である」と断言し、納得し、理解したのだと思う。インドのスピリチュアルではこれを「ハート」から理解する、という。日本語で言うと「身」とか「臓腑」から理解すると言えると思う。つまり「無常だから物に執着すべきではない」ということを「臓腑」から理解できれば解脱できる。タイの高僧のプッタタート比丘は「呼吸と共に、執着すべきものはない、何者にもなる必要はない」と常に感じていれば煩悩が消滅して解脱できると言っているが、これは繰り返しによってハートに理解を染み込ませているのだと思う。
インドのスピリチュアルにも、グルのトークだけで解脱させる伝統がある。瞑想も坐禅も必要なく、グルに明け渡し、「私は身体ではなく世界である」と臓腑から信じることで、解脱することができる。
認知の歪みを矯正できる。
けれど、末法に生まれた僕たちは、瞑想によって無常を観察したり、坐禅によって自我を消滅させるという「行」を行うことによってしか、認知の歪みを矯正することができない。
人間は「有」と「無」という「ゼロヒャク思考」をしている。しかし事実は、中道である「空」である。有無といったゼロヒャクの認知の歪みを矯正し、全てを空と見る合理的な見方をすることが、救いである
人間は、生まれつき認知が歪んでいる。この歪みのことを常見という。死後も永遠に生き続けるという意味だが「自分も物も全て永遠である」という捉え方でいいと思う。いや、そんなこと思ってないよという人も多いだろうが、本当に自分が死ぬと思ってるだろうか?家族が死ぬと「心から」思っているだろうか?知識や教養は永遠だと思ってないだろうか?
この「物には実体がある」という「認知の歪み」を推し進めたのが西洋哲学であるが、その結果人類は不幸になっている。「形あるものは壊れる」と「頭」では分かっている人が多いだろうが「心から」分かっている人はいない。
「自己」も「恋人」も「金」も「地位」も全て「壊れる」のが「事実」なのだから、執着すれば、「必ず」裏切られて、苦しむ。この認知の歪みは生物学的なものだと思われるので、相当根深い。
釈迦の説法を聞いただけで解脱した人々が説かれているが、これは本当だと思う。釈迦というカリスマが「この世は無常である」と断言し、納得し、理解したのだと思う。インドのスピリチュアルではこれを「ハート」から理解する、という。日本語で言うと「身」とか「臓腑」から理解すると言えると思う。つまり「無常だから物に執着すべきではない」ということを「臓腑」から理解できれば解脱できる。タイの高僧のプッタタート比丘は「呼吸と共に、執着すべきものはない、何者にもなる必要はない」と常に感じていれば煩悩が消滅して解脱できると言っているが、これは繰り返しによってハートに理解を染み込ませているのだと思う。
インドのスピリチュアルにも、グルのトークだけで解脱させる伝統がある。瞑想も坐禅も必要なく、グルに明け渡し、「私は身体ではなく世界である」と臓腑から信じることで、解脱することができる。
認知の歪みを矯正できる。
けれど、末法に生まれた僕たちは、瞑想によって無常を観察したり、坐禅によって自我を消滅させるという「行」を行うことによってしか、認知の歪みを矯正することができない。
人間は「有」と「無」という「ゼロヒャク思考」をしている。しかし事実は、中道である「空」である。有無といったゼロヒャクの認知の歪みを矯正し、全てを空と見る合理的な見方をすることが、救いである
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