シオランと坐禅
あらゆる約束、あらゆる幻想にまさるもの、それは結局のところ、「それが何になる?」という平凡な、それでいて恐ろしいリフレインだ。この「それが何になる?」は、この世の真理であり、端的に真理そのものだ。私は五十七年生きてきたが、白状すれば、これにまさる哲学の啓示はあずかったことはない。 シオラン
「坐禅して何になるか」
この「何になるか」という問いが第一、
中途半端じゃ。
テレビが発明されて何になったか?
おまえが生まれて何になった?
何になるものは一つもない。 沢木興道
「それが何になる?」というのは、そこから一歩も動けない「どん詰まり」だと思われる。四面楚歌。がんじがらめで身動きが取れない。みなどん詰まりを生きている。本を読んで何になる?仕事をして何になる?自殺をして何になる?
ナンニモナラヌ坐禅をただする。どんづまった人間は、坐禅をするしかなくなる。全て何にもならないのだから、坐るしかない。
何にもならないとは、根拠も欠落しているし意味付けもできないということだ。それなのに、人は生に根拠も意味もあると虚構しながら生きている。坐禅は無根拠の露呈だ。無意味のパフォーマンスだ。ニヒリズムに殉ずる。
「坐禅して何になるか」
この「何になるか」という問いが第一、
中途半端じゃ。
テレビが発明されて何になったか?
おまえが生まれて何になった?
何になるものは一つもない。 沢木興道
「それが何になる?」というのは、そこから一歩も動けない「どん詰まり」だと思われる。四面楚歌。がんじがらめで身動きが取れない。みなどん詰まりを生きている。本を読んで何になる?仕事をして何になる?自殺をして何になる?
ナンニモナラヌ坐禅をただする。どんづまった人間は、坐禅をするしかなくなる。全て何にもならないのだから、坐るしかない。
何にもならないとは、根拠も欠落しているし意味付けもできないということだ。それなのに、人は生に根拠も意味もあると虚構しながら生きている。坐禅は無根拠の露呈だ。無意味のパフォーマンスだ。ニヒリズムに殉ずる。
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