人生入門

生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です 短歌も書いてますhttps://www.utayom.in/users/9552哲学書読書計画今まで読んだものプラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー今年と来年中に読むもの西田幾多郎 カント フィヒテ シェリング ヘーゲル ニーチェ バタイユ ベルクソン再来年中に読むものイタリア現代思想 アドルノ メルロ・ポンティ サルトル レヴィナス ヤスパース
生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です 

短歌も書いてます
https://www.utayom.in/users/9552

哲学書読書計画
今まで読んだもの
プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 カント フィヒテ シェリング ヘーゲル ニーチェ バタイユ ベルクソン

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ メルロ・ポンティ サルトル レヴィナス ヤスパース

世界が嫌い

 厭離穢土という浄土教用語がある。源信僧都はなぜ穢土を厭離したほうがいいかといえば、不浄で苦で無常だからと言った。そうだろうか。綺麗な部分も楽しい部分もあるんじゃないだろうか。僕が思うに年を取るごとに、世界に醜さが露呈してくる気がする。
 子供のころは世界の善性を疑わずに近所の神社で鬼ごっこをしていたけれど、年を取ると、本当の鬼が現れてくる。
 僕は、世界は悪だと思う。けれども善だという人もいると思う。それは世界からどれだけ恵みを与えられたかにすぎなくて、結局世界は善でも悪でもないのかもしれないけれど。

 悲しいこと、苦しいことが多すぎる。宗教の言葉に託したただの愚痴だ。

どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教えください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たりしたくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください

 綺麗なもの、楽しいもの、常なるものが見つかるだろうか。僕は世界を好きになりたいけれど、世界はたぶん、僕のことが嫌いなんだと思う。
 

頭を下げる たかが私

 頭を下げること=救いなのだと思う。
 僕は歴史上で一番救われなかった人物は秦の始皇帝だと思う。自分を神の如く思っていたから、不老不死の薬を求めたけれど、だまされて死んだ。頭が下がらなかったから死んだ。これは我執の立場である。ピラミッドを作った王たちも同じだろう。そして僕たちも。
 逆に七高僧の曇鸞は、最初は長生きの法を求めたが、のちにインドの僧に観無量寿経を授けられて、仏に頭を下げて救われていった。

 30代で参禅するのは珍しくて、頑固がとれなかったので、師匠にもう額づきまくって、おでこが擦り切れまくっている禅僧がいたらしい。本当に頭を下げることは、それほどまでに難しい。
 
 死ぬのがなぜ怖いかと言ったら、頭をあげているからだ。自分のことが世界一大切で、これがなくなるのが怖い。だから王はピラミッドを作る。「本当に」頭を下げるとどうなるか。自分を過大評価しなくなる。謙虚になる。「たかが私」になる。

 人間に、頭を下げる能力はない。端的に不可能である。だから、阿弥陀仏が僕たちに「どうか助かってくれ」と頭を下げている。それでも僕たちは知らんぷりをしている。阿弥陀仏が頭を下げている。五劫の思惟と永劫の修行をして、僕たちの救いを完成させたあとに、「どうか南無阿弥陀仏を受け取ってくれ」と頭を下げている。その莫大な慈悲に、「頭を下げるのはこっちのほうだった」と気づいたとき、心の中の頭が永久にポキっと折れるのだと思う。「つまらん私だった」と深心される。

 「たかが私」で、首根っこからポキっと頭が折れる。これが機の深心だ。しかし「されど私」で、弥陀仏に愛されていることを知る。これが法の深心だ。

 拝み拝まれる人生。僕は、普通に生きてて、心底から頭が下がることがあるとは思えない。たかが私で、自分のつまらんことを知る。されど、捨ててくださらん親がいる。よくできたしかけだなと思う。

暗闇

 8歳のころに、「死」の意識が襲ってきたのも、布団の暗闇の中だった。
 最近井筒俊彦の「意識と本質」を数年ぶりに再読しているんだけれど、禅の悟りの構造がめちゃくちゃ分かりやすく構造化されている。僕たちは普段、コップや自己などを、「それ自体」あるものとして、つまりそれらの「本質」を仮定して生きているわけだけれど、大乗仏教はそれを「空」だと言う。山は山ではない。川は川ではない。リンゴはリンゴではない。
 最初に分別意識がある。これはリンゴをリンゴとしてみる意識だ。そして座禅や公案などで修行をすると、無分別意識、リンゴの「リンゴ性」がない世界へ出ることができる。「コトバ」による分別(妄念)がなくなる。これを分別意識から無分別意識への修行だとすると、もう一段階禅には修行がある。あちらからこちらへ帰って来なければならない。分別意識@→無分別意識→分別意識Aと進んでいく。@は、全てのものに「本質」という幻が見えている。無分別意識によって、それを迷妄だと見抜き、Aに至ることで迷妄を迷妄と知った上で生きることができる。これが禅のプロセスらしい。
 全てのものは実体がない幻だと見抜いて生きること。これが禅であるらしい。

 だから、僕は(本当は)実体がないから死なない。それでいいのか?

 意識というものがある。電球と同じで、明るくなったり、暗くなったりする。僕は死というより、この圧倒的な「暗闇」が怖いのだと思う。僕は生まれつき視力が悪く、自分が失明することを異常に恐れてた時期があるのだけれど、暗闇が異常に怖い。この意識の電球が消えるのは、悟ってもどうにもならなくないか。僕は永遠の暗闇が怖い。
 僕は死をずっと「黒」だとイメージしていたけれど、友達は「白」とイメージしていると言っていた。だから友達にとって死は救いなのかもしれない。
 怖い!永遠の眠りが怖い。悟っても永遠に眠る時は来る。その暗闇が怖い。どこかで意識がぶつ切りになって、一生真っ暗。

 ところで、阿弥陀仏は「無限の光」という名前の仏である。トラックにひかれて急に死んでも、ずっと意識は光のままである。南無不可思議光如来。

今ここ

 「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。』と。これが修行を続けてきたものへの最後のことばであった。」

 この「怠ることなく」というのは、専門用語で「不放逸」という。聞きなれない言葉だけれど意味は明快で、日本語にすると、「気づきを忘れない」という意味になる。
 ブームは少し去った感があるが、少し前までスピリチュアル界隈で「今ここ」というのが流行っていた。瞑想してみると分かるが、人間の思考は「勝手に」未来や過去へ飛んで行って、「今ここ」にあることはめったにない。今、自分がしていることに「気づく」のをサティというのだけれど、今の自分の身体の状態や感情、思考に気づき続けることで、「今ここ」に錨をおろすことができる。これをヴィパッサナー瞑想という。そしてこのサティを養うことで、思考の欺瞞を見破ったり、無常や無我を看破しようというのが初期仏教の基本的な修行方法である。
 エックハルト・トールが、「パワーオブナウ」という本を出していたり、レナード・ジェイコブソンが「この瞬間への旅」という本を出していることからもわかるように、仏教外でも今ここというのはスピリチュアル界で重要視されている。今ここにいるということは、即ち思考がないということだ。思考がなければ問題もない。今ここにいることが増えれば増えるほど、安らかな時間が増えていく…。
 禅でも「今というカミソリの上を歩く」という表現があるように、「今ここ」が非常に重要視されている。座禅とは今ここにいるための練習だろう。

 仏教の一派である、浄土真宗には「今ここ」はないのか?ある。平生業成である。そもそも阿弥陀仏が無限の空間と、無限の時間の仏なので、いつでも、「今ここ」が助かる場所だ。でも念仏者は、サティを養っているわけではないし、今ここにいる訓練をするわけでもない。真宗の今こことはなんだろうか?ここで妙好人の逸話を一つ。

『余(よ)が先年本山参詣せしに、白髪の老婆が茶所に腰をかけ己わすれて御法義ばなしをいたしおるゆえ、背(せな)をポント叩き、 
「此処はどこぞとおもふや、御本山の前じゃないか、ウカウカ シャベルナ、無常の風は後より来るぞや」、と大音聲にておどせしところ老婆はうしろへむきながら、「親様に御油断があろうかなあ」 と申された。我れは油断をしても、親様に御油断がないと、親心にこころよせたゆえ、これはえらい同行ぞとおもひ名前を聞けば、是ぞ音に聞こえし三河國田原の おその同行にてありし。

 何が「不放逸」なのか?阿弥陀如来が不放逸なのだ。阿弥陀如来が常に衆生に「気づいている」。こちらに放逸があっても、常に不放逸の阿弥陀、忘れてくれない親がいる。これが浄土真宗の「今ここ」である。親様に御油断はない。

信じる 疑い 救い

 「信」という字は「まこと」という意味を表すというのは浄土真宗でかねがね聞いていたけれど、グーグルで信と検索したら本当にそういう意味があった。一般的にもそういう使われ方をするんだ、と一つ学んだ。
 浄土真宗は信心、言い換えれば「まことの心」——それは絶対にこの虚仮不実な凡夫の心ではない———「仏心」を仏から賜る宗教である。この信心があれば、浄土へ往生できる。疑いがあれば、往生できない。僕は阿弥陀仏はなぜそんな不親切なことをしたのか、ずっと疑問に思っていた。南無阿弥陀仏と称えさえすれば、浄土へ行かせてくれればいいじゃないか、と思っていたけれど、それでは「救われない」のだ。
 実際にそういう宗旨もある。一遍上人の開いた時宗だ。時宗の有名な言葉に「信不信を問わず」というのがある。これを「無安心の安心」ともいうらしい。けれど疑いのあるままで、本当に救われているのか?信不信を問わずに救うのが、本当の慈悲なんじゃないか?と思った時期もあったが、今はそうは思わない。
 信仰とは、清沢満之によると、主観的な事実である。人に金を貸すとしよう。それが返ってきたとき、本当に安心する。返ってこないうちは、もしかしたら…という不安が拭えない。心に「仏心」が宿って疑いが晴れたときが、金が返ってきたときで、疑いが晴れてないときが金が返って来てない状態である。宗教の眼目が「安心」にあるとすれば、疑いとは安心を崩す、救いの邪魔者でしかない。
 けれど、無限を有限な知性で計らうことはできない。けれども計らってしまうのが人間である。不可思議で無限なものの前では、人間は計らわざるをえない。それは2×2=100だと言われているようなものである。だから阿弥陀仏がお育てをして、疑いを一つ一つとってくれるんだろう。
 稲城和上がいつも仰ってるが、救いは「今ここ」である。平生業成とはそういう意味だろう。

 「疑いのないこと」=「救い」である。安心である。イコールである。即である。「救い」というのは「疑いのないこと」である。

 信を強調している浄土真宗からたくさんの妙好人が生まれ、時宗では一切聞かないのは象徴的である。信のあるところに救いはある。妙好人も、それを証明している。

一歩も動けない

 「人間は死ぬ」という一点。もっと具体的に言えば「僕は死ぬ」という一点から一歩も動けていない。それを死刑囚と言ってもいいし、癌患者と言ってもいいけれど、人間は全員罪人だし病人だ。「人間は死ぬ」この一言の前に、後に、何か付け足すことがあるだろうか?
 今年はサルトル、ハイデガー、ショーペンハウアーなどを読んだけれど、ハイデガーが存在への通路へ使うために使っているだけで、「人間は死ぬ」ということなど何も書かれてなかった。「人間は死ぬ」は前提であり、そこから出発していない本などは、パン一枚の値打ちもない。僕はそこから出発している本を、シーシュポスの神話、パンセ、人みな骨になるならば、懺悔、シオラン、などしか知らないけれど、これこそ「本」というべきもので、それ以外は「お喋り」である。
 本当に一歩も動けないのだ。自分の足場、直径30センチだけが明るくなっていて、他は全て真っ暗。「人間は死ぬ」という前提から一歩も動けない。これは「前提」であって「結論」ではない。しかし、これが「結論」になっている人が、くだらないお喋りを繰り返すのだろう。僕はこれが一歩も動けない「前提」になっている本でないと、本とは認めない。思想とは認めない。
 「人間は死ぬ」この一点。どうしようもない一点。そこから一歩踏み出す。どこかで見た比喩で言えば、目の前のドアが全て開いていく。そういう言説だけが言説の名に値するのであって、僕は、人間のお喋りが嫌いだ。

傲慢

 あんまり自分の弱みとか書きたくないんだけれど、周知の事実だろうから書く。僕は傲慢である。
 「傲慢は何があろうと必ずどこかで元を取る。虚栄を捨てる時さえ、少しも損をしないですませる。」
 これはロシュフコー
 ニーチェのアフォリズムにも「傲慢さが許せないのは自分が傲慢だからだ」というのがあった。
 
 信仰者に一番あってはならないのが「傲慢」なんだけれど、僕は傲慢である。具体的に言うと、自分を賢いと思っている。自分が正しいと思っている。だから、他人の傲慢が許せない。「虚栄を捨てるそぶり」さえ、許せない。「僕はこんなに賢いですよ」というのも許せないし、「僕はこんなに賢いので傲慢をこんなに上手く隠せますよ」というのも許せない。
 
 ポーズではなく、根っこから謙虚になりたい。他人の傲慢さも許せるようになりたい。昔よりはよくなったけど、今でも「こいつバカのくせになんで自分のこと賢いと思ってるんだ?」とか思ってしまう。どうしようもない。心根から腐ってるので、それを隠すことしかできない。心は蛇蠍の如くなり。

 だから僕と同じ「自分のことを賢いと思っているバカ」な人とは友達になれないと思う。少なくとも僕はそういう人が嫌いだ。僕は素朴な人が好きだ。

 思えば僕はずっと傲慢だった。一生治らないのかもしれない。それでも18願は僕の煩悩の形に合わせて作られたらしい。念仏してたら謙虚になれると思っていたけれど、謙虚になれないから念仏をするしかないのかもしれない。

悟りと念仏と救いと

 この前買った前田慧雲師語録には、禅の悟りとは万物一体を感じることだと書いてあった。これを現代スピリチュアルで「ワンネス」というんだけれど、このワンネスが果たして救いになるのかどうかわからない。自分が死んで、世界だけになる。そういう風景だと思う。
 悟りには大別して「ワンネス」タイプと「無常」タイプがあると思う。無常タイプというのは集中力と気づきを研ぎ澄ませることで、ナーマ(心)とルーパ(体)をハッキリ区別し、ルーパの、無常で、普通では感知できない「隙間」を観るというものだ。ここで無常、無我、苦がハッキリと観察でき、煩悩が滅せられるという。それを涅槃という。

 無常タイプはテーラワーダ仏教の悟りである。お坊さんが語る死、みたいな本にテーラワーダのお坊さんが死ぬところが描写されていたのだが、自らの「無我」を知っているため、一切恐れがないらしい。その本を書いたお坊さんと個人的に会って「死ぬのが怖いんですけど…」と相談してみたことがあるんだけれど、そのときは「死は今ここにはない。死のイメージを作らないように、サティ(気づき)を養いなさい」と言われた。僕はなんとなく、誤魔化された気がした。
 テーラワーダ仏教は、完全な「死」を志向しているといってもいいと思う。生物は六道輪廻する。だから煩悩とカルマを滅して、完全な「無」になろう。僕はこれが救いだとは思えなかった。

 そこでアドヴァイタや禅に興味を持ったのだけれど、アドヴァイタには多少希望があった。この「身体」は自分ではなく、身体を超えている意識が「真我」であり、それは生まれることも死ぬこともない。これはよくスクリーンの比喩で言われる。この身体や見ている世界は映画の中の登場人物や風景のようなものだ。けれど、本当の「自己」はスクリーンのほうにある。登場人物である「小我」が死んでも、スクリーンである「大我」は生きている。禅は言語化が嫌いなので、何冊読んでも禅の悟りがなんなのかよくわからないけれど、僕の見るところ、アドヴァイタの悟りとほとんど変わらないと思う。現に鈴木俊隆も著書の中でスクリーンの比喩を用いていた。でも結局「この僕」が死ぬのに、それは救いなのか?永遠なのか?永遠を「見た」だけじゃないのか?沢木興道もこう言っている。「われわれはだれでも世界と一緒に生まれ、世界と一緒に死ぬ。めいめい持っている世界はちがうのじゃから。」

 「この僕」が「永遠」にならなければ救いではないんじゃないか?僕は救いには永遠というファクターが必要だと思うけれど、悟りの場合、「この僕」は永遠にはならない。本当の自己であるスクリーンが永遠になる。父母未生以前の本来の面目が永遠である。

 48願の中に、こういうのがある。
「たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々、宿命を得ず、限りない過去のことまで知り尽くすことができないなら、わたしは決して仏になりません。」自分の過去世の記憶を全部思い出すことができる。それは「この僕」のアイデンティティが最高潮にまで高まるということだ。「この僕」が永遠になる。それは念仏の道しかないと思う。

 救いというのは悟りではなく、往生だ。

夢日記

 終業式か、卒業式のような、何かの終わりの式の日のことだったと思う。グループで分かれて、校舎全体を掃除するよう、先生に指示された。僕は3人グループの中に入れられたのだけれど、他の2人はどちらも知的障碍者だった。DくんとMくんとしよう。Dくんがどこを掃除するか指示された紙を持っていたので、それをチラ見すると、緑色の芝がうつっていたので、裏庭か校庭だな、と思った。けれどDくんに聞くと、違うという。じゃあどこなんだ、と聞くと分からない、という。知らないうちにDくんはチラシを無くしていた。どこなんだ、わからない、のやりとりを10分ぐらい続けているうちに、だんだんこの知的障碍者が憎くなってきて、箒の柄でおでこを殴ってしまった。血が出た。Dくんは泣き出して、先生に言いつけた。僕はこっぴどく叱られた。
 みんな、校庭で集会をしていた。そこにこっそり忍び込んだ。僕が暴力を振るったのはみんなに知れ渡っているみたいで、みんなから白い眼で見られた。友達のRくんが目線で何か合図を送ってきたので、箒で殴るジェスチャーをした。Rくんは笑っていたが、少し僕のことを恐れていた気がする。
 集会の後、帰宅際、僕のほうを見てひそひそ言っている女子がいたので、「10分も知的障碍者と対話してたら頭おかしくなるよ。誰だって頭おかしくなるよ。僕のせいじゃない。」と叫んだ。

 眼が覚めた。なんだか犯罪者になった気分だった。

蝉の死骸と百合の花

 上を向いて歩こうという歌があるが、僕は猫背なので、いっつも下を向いて歩いている。いつものように130円でペットボトルコーラが買える自販機へ歩いていると、小道に、蝉の死骸が落ちていた。僕はそんな残酷な人間でもないし、聖人でもないので、踏みつけることもなく、合掌することもなく、その場を過ぎた。蝉の死骸を見たことのある人ならわかると思うけれど、命の切なさ、儚さみたいなものをまざまざと感じさせられる。思わず心の中で「お疲れ様」とでも言いたくなる。いっつもうるさいのは多分君だったんだろうけれど、精いっぱい生きてて、本当に偉い。
 その直後に、目の前のコンクリートの段差に、バカでかい百合の花が咲いていた。なんか、蝉の死がそのまま百合の命になったように感じて、厳粛な気分になった。蝉の死骸も、土になって、また、何かの命になるのだと思う。百合の花は、花の重みで、お辞儀をしているみたいだった。
 生死一如という仏教語が頭に浮かんだ。死にも何か、尊厳と言ったら大げさだけれど、死にもきっと、何かがある。蝉の死骸も、百合の花も、僕も、大きい命の中で、蠢いている、衆生だ。
 百合の花に一礼をして、念仏をしながら大通りに出た。僕は、命という言葉が好きだ。