人生入門

生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です
生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です

最近詩を書いています
https://sabakunoie.tumblr.com

短歌も書いてます
https://www.utayom.in/users/9552

母さんに見せてたブログ
https://delicatelynumberoneconnoisseur.tumblr.com

2年間更新し続けてる小説
https://ncode.syosetu.com/n1576fw/
恋愛

恋愛

 僕は今まで恋愛について否定的なことばっかり言ってきたけれど、永遠性という立場から見ると、恋愛も案外捨てたもんじゃないかもしれない。

 人間の中には「永遠」がある。これはソクラテスやキルケゴールが信じて疑わなかったことだが、どうやってその永遠性を喚起させるかが問題だ。ソクラテスの場合は「魂の吟味」がその方法で、キルケゴールの場合は「信仰」がその方法だろう。
 ところで、「南無阿弥陀仏」というのは「お前を助けるぞ」という「絶対・永遠」からの呼び声であり、それが自分に領受されると、自らも絶対化される。真宗でよく言われる例えだが、金を、金の獅子にしても、価値は少しも変わらない。永遠=金の世界から相対=金の獅子に来った南無阿弥陀仏は人間に永遠性を垣間見させる。

 「恋愛」自体は永遠ではないかもしれないが、というか愛別離苦がある以上、永遠ではありえないが、人間の中の永遠性を喚起させる働きはすると思う。カップルの吐く「ずっと一緒にいようね」「何があっても一緒にいようね」という言葉は「今」に永遠が注入される瞬間だ。離れる前提で付き合うカップルはいない。「付き合う」という行為は、その関係は無常だとしても、少なくともその期間に「永遠性」が働き続ける行為なのだと思う。「今」の永遠化。結晶化作用。

踊る阿呆に見る阿呆

果たしてぼくにとって、詩を書くとは、ものを書くとは一体なんだろう?それは一言でいえば「人生をふいにする」ことだ。人として生きる価値を限りなくゼロへと近づけてゆく行為。それこそがぼくにできる唯一の仕事であり、興味のもてる全てでもある。

 とある詩人の同人誌のあとがきなのだけれど、一度読んで僕は「嘘だ」と思った。なぜならピュアじゃないから。他人に自分の生を認められたいという欲求があるから。純粋じゃないから。商売をしているから。

 これを読んで、僕は沢木興道のこの言葉を思い出した。
 
「なんにもならんこと」を自信を持ってしておるところが、おもしろくはないか。

 坐禅は本当に何にもならない。金にもならないし尊敬もされない。まず人前で坐禅をしない。僕は、ものごとは究極まで瞑想しなければならないと思っている。そして、鎌倉時代というニヒリズムの時代に、究極まで瞑想した思想家が、道元と親鸞だと思っている。
 
凡夫は五欲六塵にウロタエテおる。そして好きだとか嫌いだとか、得したとか損したとか、エライとかエラクナイとか、金があるとかないとか、勝ったとか負けたとか。ところがそんなこと結局ナンニモナラヌということがわかって、そうして最後に「ナンニモナラヌ坐禅をタダスル」ということにゆきつかざるをえないのである。

 行きついたところまで行きついた人生。人生について本気出して考えてみたら、僕は、自殺、坐禅、念仏、の3つにしか行き着かないと思う。哲学や、芸術なんかは中途半端だ。「何にもならない」と知っていて、「何か」をするのは、嘘つきだ。どこかに必ず嘘が混じる。「何にもならない」人生なのだから、「なんにもならない坐禅」をするというところまでゆきつかなければ、本物ではない。中途半端な虚無思想で気取っているアーティストさんは嫌いだ。踊る阿呆に見る阿呆という言葉があるが、表現する人間は完全に踊る阿呆だろう。舞台の上で踊っているのだから、虚無思想を語ってほしくない。本当に心底「無」を信仰しているなら、舞台から降りるべきだ。
 
 「なんにもならぬ」人生で、一点の嘘もないもの、それは自殺か坐禅か念仏しかない。一点の曇りもないもの。完全なもの。即ち、無か永遠。僕は無を志向する人生でも、それはそれで誠実だし、僕にはできない道だから、物凄く尊敬する。「自分は誠実ではない」といって自殺をした詩人の原口統三が本当にいとおしくてたまらない。彼は本物だろう。
 僕がもしも人生をふいにするのなら、自殺か坐禅をする。そして、僕は自殺も坐禅もしたくない。
 ニヒリズムの時代だからこそ、永遠を志向したい。僕にはそれしか誠実に生きる方法が見当たらない。
 

無知の知

 知識を得る究極の目的は「歴史上の偉人も何も知らなかったし、自分も何も知らない」ということを悟ることだと思う。知識を積んでも、時間がなんなのか分からないし、存在がなんなのか分からないし、物質がなんなのか分からないし、観念がなんなのか分からないし、宇宙がなんなのか分からないし、自分がなんなのか分からないし、心がなんなのか分からないし、人生とはなんなのか分からない。これに答えが出せたらノーベル賞どころではないだろう。これらは人類にとって永遠の謎なのだと思う。
 だから僕は「理論」というものが嫌いで、そんなものを「武器」にしだしたらおしまいだと思ってしまう。どの理論を選ぶかは自分の「欲望」が決めていて、その欲望こそを問題にしなければならない。生きる上での処世術にはなるかもしれないが、それ以上でもそれ以下でもない。そしてそんなものは真善美とは全く関係がない。

 僕の云う事はいっつも身もふたもない。でも人生って身もふたもないんだと思う。

 けれども「無知の知」に安住することは、それはそれで下品だ。「俺は何も知らないことを知っている」という知的なポーズをとり続けるのは滑稽な冷笑主義というか、誠実ではないというか、そんなところに留まるのは「面白くない」
 だからソクラテスは「無知の知」を標榜しながら対話を続けたのだろうし、当時の日本で一番学識があったであろう法然上人は、愚痴の法然房と自称して、究極の智である仏に帰依したのだと思う。
 「無知の知」は到達点であり、出発点である。そこにとどまってはいけない。

みんな仲良くしてほしい

 僕を振った女も去年死んだ猫もこの前死んだ母さんも子供時代遊んだ友達もこの前縁切ったネットの友達もTwitterにいるキモいフェミニストもいつかはみんな浄土に行って仲良くできると思ったら嬉しい。あのときはごめんねってみんなで笑いあえたらいいな

空論 魔王

 まいにちまいにち凄まじい量の「お喋り」を目にする。今日は「負の性欲」というものについて、喧しくお喋り(議論という言葉を使いたくない)が行われていた。負の性欲というのは「この異性とは子孫を残したくないな」という「欲求」のことらしい。それがなんでお喋りの対象になるのかというと、「負の性欲」という言葉を使うことによって、「俺を拒否したこいつに俺は負の性欲を向けられたんだな」という下卑た根性をぶら下げる男が増えるかららしい。けれども普通に考えてこの男は「負の性欲」という言葉の「性欲」という言葉を通常の意味でとるという誤解をしているし、この誤解した男が生まれると主張しているフェミ共も誤解しているんだろう。
 「性欲」という言葉は通常、相手とセックスをしたいときに使われる言葉なので、「負の」という形容をしても、そういった通常の意味を喚起させるから問題なんだろう。そういう意味でここで「性欲」という言葉を使うのがこの概念を使う上で適切なのかはどうか微妙だ。生殖欲、負の生殖欲、とすれば議論がスッキリするんじゃないかと、僕は思う。

 ハァ、クソどうでもいい。こういったお喋りが毎日毎日飽きることもなく繰り返されている。みんな誰かと戦っている。

 小学生の頃、ずっこけ三人組という児童向けの本で、面白い話を読んだ。細部までは覚えていないんだけれど、三人組が洞窟に入ると、怪しげな村があって、そこには大きな祭壇があり、神様が祭られている。村人は神様を物凄く大事に扱っていて、その敬虔さに三人組はちょっと引く。1年に1度の祭りがあるというので、三人組がその祭りを見学すると、村人は「お前のせいで米が不作だった」だとか「お前のせいで嫁に出ていかれた」などと呪詛のかぎりを尽くす。そしてスッキリした村人は、また一年間、安定した秩序のもとで平和に暮らす。
 こんな話だったと思う。「負の性欲という言葉を使って興奮するキモいおじさん」とか「女子高生と中年の恋愛漫画に抗議をするフェミニスト」とか「半日教育ばかりされてる野蛮な韓国人」とかそういう概念と戦うよりも、よっぽど健全というか、合理的だと思う。よく言われる話だけれど、宇宙人が地球を侵略しにくれば、戦争はなくなる。「魔王」がいるからみんなが団結する。
 
 訳知り顔でTwitterで延々とお喋りをしている人間は僕は嫌いだ。阿呆に見える。どうでもいいことしか喋っていない。「結局死ぬのになぜ生きるのか」「なぜ自殺しないのか」以外のお喋りは全部ゴミだ。なんの役にも立たない。
 「死」がみんなが団結して倒そうとする「魔王」になればいいのになあと思う。死は人類全員の普遍的な敵なのだから

加茂仰順師

 今月は加茂仰順という昭和のお坊さんの本を繰り返し読んでいる。一番良かったところを自分で読み返しやすいようにメモしておく。
 
 自己の中にささやく声を聞け、それが聞けないものは、現実の師匠によって、自分の道を聞く。聴聞は、我々下輩の者に最も大切なことである。
 私はいままで、ご開山さまが、計らうな、計らうなと申されるので、計ろうてはわるい。計らわぬようになろうと思うていた。
 計らうなの仰せを聞くと、私の方で往生の世話をやめることであり、後生の心配をしないようになることであると、とにかく私が如来のご注文にしたがうことのように思うていた。そして、自分の心に順うたよい心と、順わぬわるい心と二つあるように思うていた。
 ところがそのようなことではなかった。「計らうな」とは、如来が私へのご注文ではなく、また、私が如来の仰せを聞いてあげることでもなかった。まるきり、私の心に如来が順ってくだされたお言葉であった。「受けよ」とは「受けた」ということでもなく、「計らうな」とは「計らいません」ということでもない。「何がでてきてもいまの心のまま」ということである。お前の方には少しの心配はいらぬぞやと仰せられることである。それとも心配がしたいなら、その心配しているままが私の受け持ちであるで、安心しておれと仰せられることである。安心しておれねば安心しておれぬでおれ。そのあと始末はいらぬぞやと仰せられることである。

 自力の心をふりすてるとは、わが思う心もすてねばならぬように思うはまちがいである。おのれに力みをいれるこころをすてるので、自分まで捨てるのではない。つまりおのが心の善悪に目をかけず、大悲を仰ぐところに、はやおのれを忘れておるのである。

 ここにお同行の法の上の語らいぐさがあります。とてもはっきりした話ですので、耳をかたむけることにします。
 さてお同行の問い一つ。
 親様のご親切を思い出させてもらいますと、何ともありがとうてなりません。しかしまた何ともいえぬあさましい心が起こりますゆえ、これが私の心の本体である。これを喚んで下さる親様じゃと思うてみても、なかなか承知いたしません。
 ああこんな心が起こるというは、まだ聞き不足ではあるまいか。実に一大事じゃと念を押します。これはいかがしたものでありましょうか。どうかおさとしをおねがいいたします。
 これはお同行さん
 ご当流は他力です。
 如来様のお力一つで、私等が本当に聞いたところやなんどには、お助けのかげもありませんので、あなたがながい間聞いて、これで充分であり、少しも不足はないとなられたとて、往生の役には少しも立ちません。
 私の手細工で、らちのつけられるうちは、まだ聴聞の分際です。いよいよらちのつけられぬのが機の真実です。 
 万一、らちがついたり、言い切られぬ思いの出てこぬようになられたならば、親様とは万劫のお別れになってしまいます。
 如来様の本願は、凡夫にまるきりはたらかさず、助けるとあるのです。
 どんな心が起こりても、そのしまつは凡夫にはさせぬとのお約束が、因位の昔にきまったのであります。そのお助けを聞くばかりです。

 土が人形ともなり茶碗とのなるには、土がどれほどりきんでも駄目なことであります。みなそれを作る人の力です。往生はまかすもまかさぬもただただ如来の力によります。
 助かるとは、十劫暁天より呼びづめに呼びたもうてある如来のお助けに助けられるのであります。暗いまま、明らかでないまま、理屈のつじつまのあわぬまま、何も分からぬまま、まどうているまま、どうすることもなしに助かるを弥陀のお助けというのであります。弥陀の御誓いであります。いつももやもやでありますが、海のような如来の大いなるお心、ゆったりされたお心に救われるのであります。
 「そのままでゆくのじゃぞ」をたびたびお聞かせ頂いているうちに、宿善ここに開け、自分の本来の価値を知り、いまの位置に安住して、にっこりほほでんで、往生されたという幸せなお同行もありました。

 さてそのつゆちりほども疑いなくとは、ご教化を機と法の分別なく聞き間違うから、ややもすれば、わが機をながめて、つゆちりほども疑ってはならぬとの御教化ではあるが、この心がすかっとならぬ。明らかにならぬ。こんなことではいかがか知らんと、わが胸をながめて、的にするゆえ、若存若亡することになる。
 全体、つゆちりほども疑いなく信じまいらせろのご教化は、わが機をみて、疑い晴らせとのご教化ではなく、法のおてもとを見て、疑い晴れよとのご教化である。弥陀もお手元におかせられては、私のようなあさましき者を、この機のままをお引き受け下されて、大慈悲を以ってお助け下さる御心のお慈悲とは、つゆちりほども疑うところはございませんと、疑い晴れたわが後生に、すっくりと疑い晴れた信心である。
 
 ところが、私たちの機ざまがあまりにも浅ましい、お救いの法には何とも文句ははいえないのに、この機にはとかく文句が起きます。しかし文句のいえる私の心で解決をつけるのではなく、文句のいえない如来の法で解決をつけて下さるのです。何十年聞いても何ともなれないのが私の心です。もしも何とかなれたときは、み親とはお別れの時です。なんともなれないこの心のなりで、「弥陀のてがらをさせてくれ」と仰せ下さるのです。しっかりなりたい、安心したいという心について廻るのではなく、私の逆法のすがたのすべてを入れて呼びたまうみ親の仰せをただ聞かせてもらうのです。あるお同行さんの述懐に「見にくさのすべてを入れて呼びましぬ、み親のみ胸に今日も安けし」とありますが、味わい深い言葉です。
 つまり、如来のお救いをを聞きながら、その身になれん、そうは思えんという気持ちが起きてきて、自分の心にぐずぐずしています。この心がどうにかなったらお救いにあずかるかのように思い、なれんことをもがきます。ほんとにこの心が万劫の仇です。このたびこの心にうちとられるか、うちとられないですむか。でも既にこのすがたを如来は見抜いてくださいました。ようこそなあ、というほかはありません。見抜き違いのない如来のお救い聞き得させていただく私たちのしあわせをよろこばずにはおられません。

 弥陀のご本願のお約束が、地獄真向きのままで仏にしよう、助からないものを助けようのおちかいであるから、仏とも法とも知らないときのなりでお浄土参りの仕度は充分である。
 あなたの仰せを聞かせても、はねつけたり、逃げたりする心をお見抜きの上で、御身代わりをつとめて下されてあるから、にげまわす心のなりで、浄土へ参らせてくださるのである。
 これを思うとき、どうしたお慈悲であろうかと喜ぶあとから、すぐに心がおかしなものになり、いやな心や、うろうろする心になってしまい、これではお慈悲が本当に届いてないのであろうかと思う。しかし、しかし、私の往生はお慈悲の届かないもとの姿なり、一度も安心したことのないままで、助けるお約束であったのである。
 この心のなりをタノムすがたに成就され、ご本願に順うすがたに成就してあるのである。
 それならば、いくら逃げ上手の私でも、不足の申しあげようはない。どうしても参らせていただくよりほかはない。
 まことに隅から隅までお念仏のとどかせられたお仕掛けである。

自殺しようかなあ

 僕が死んだら悲しむ人は5人ぐらいはいるだろうが、それも1か月たてば普通のなんともない意識に戻るだろう。自殺という選択肢は常にあるんだけれど、踏み出せない。自殺してもしなくても何も変わらない。零=零。地位も仕事もルックスも健康も生きがいも本当に何もないし、なんか、死にたいな。近いうちに死のう。多分阿弥陀仏がなんとかしてくれるだろう。近いうちに死のう。
 誰からも愛されないの、普通につらくなってきた。何も築き上げてないし、生まれ持ったものも何もない、むしろマイナスだから、誰からも愛されない。死のう、死のう、死のう。
 何もかも虚しい
 

信仰が本当に無理になってきた

 もうだめかもしれない ただただ苦しい 普通の人が引っかからないとこで1年弱ひっかかってるから向いてないんだと思う。

 瞑想、坐禅、老荘思想、ストア主義、趣味としての西洋哲学、この辺の自分に親和性のあるツールを使って死ぬまで穏やかに生きるのが一番いい気がしてきた

大丈夫

 阿弥陀教ってどういう宗教?って聞かれたら、「大丈夫の宗教だよ」って答えたい。宇宙中に、目に見えない「大丈夫」が溢れている。その「大丈夫性」が言葉になったのが「南無阿弥陀仏」で、これは「大丈夫だから何も心配せんでいい」という意味だ。宇宙は目に見えない「大丈夫」で溢れている。悲しい時も大丈夫。つらいときも大丈夫。生きてるときも大丈夫。死んでるときも大丈夫。この「大丈夫」の働きに名前をつけたのが「阿弥陀仏」で、働きより先に仏がいるわけではない。世界中に溢れている「大丈夫」のことを、仮に阿弥陀仏と呼んでいる。
 信仰をすると言っても、自分の口から出てくる「南無阿弥陀仏(大丈夫)」を聞く以外のことは何もない。大丈夫。生も老いも病気も死もぶっ続けで大丈夫と肯定するところに、大乗仏教を感じる。だいじょうぶっきょう。

 大丈夫海から声が降ってくるいつでも君の手の中で死ぬ