比較
われわれはだれでも世界と一緒に生まれ、世界と一緒に死ぬ。めいめい持っている世界はちがうのじゃから。——————澤木興道
一人一つの宇宙を持っている。一人、というのも正確ではない。生命あるもの全て、ミミズ、オケラ、アメンボ、木、もしくは国土。草木国土悉皆成仏。普通の言葉で言えば「こころ」バークリー流にいえば「精神」唯識仏教風に言えば「阿頼耶識」、これらの心的なものは、端的に宇宙である。
あなたが死ねば、世界はなくなる。あなたが生まれたから、世界が生まれた。ショーペンハウアーは、「世界」が生まれたのは、客観的物質世界に「眼」を持った生物が生まれたときだと考えた。「主観」がなければ「宇宙」は存在しないからだ。
ネット上で嫌いな奴がいるんだけれど、そいつが僕に「誰かと全く同じ景色を見たい。そのために生きて、音楽をしている」と言っていた。その時に僕は「同床異夢って言葉知ってる?仏教の言葉なんだけどね、同じベッドに入ってても同じ夢は見れないって意味だよ」と言ったんだけれど、相手は全く理解していなかった。例え、同じ場所、同じ時間に富士山を見たとしても、その時の体調、富士山に対する知識、気分、などの要因で、同じ富士山を見るのは不可能だ。同じベッドに寝ていても、違う夢を見ている。
人生は一つの夢である、と考えよう。夢と夢は通約不可能である。形と音が比べられないように、僕の夢とあなたの夢は比べられない。あなたの景色を僕が見ることは端的に不可能だ。
人生は一つの小説である、と考えてもいい。それらは独立した本であって、比較することはナンセンスだ。だって、僕は僕の小説しか知らないのだから、他人の小説と僕の小説を比較することは不可能だ。もし、神のごとき「読者」が存在していて、「この小説はつまらない」「あの小説は面白い」と判定することができるならば話は別だが、その存在を僕らが知る由はない。僕らは徹頭徹尾、自分の小説の内にしか存在できない。「比較」する「権利」があるのは、小説の中のキャラクターである僕たちではない。比較する権利があるのは、各々の小説を読む、神だけである。
「僕の小説」の登場人物に「あなた」が出てくる可能性があるけれど、それは「あなた」であって、「あなたの小説」が出てくるわけではない。「僕の小説」の中で「僕」と「あなた」を比較することは可能だけれど、それは「僕の小説」と「あなたの小説」を比べることとは全く違う。
人間は、世界を持って生まれる。夢の中で生きている。誰も比較することなんかできない。僕はあなたではない。僕は、僕だ。
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