祈り
ニヒリズムやメランコリーを売りにしている人間が『祈り』という言葉を濫用しているのをよく見る。この『祈り』に対して、僕は「諦念」「自己の無力さ」というものをビンビンに感じる。どうせ祈っても無駄だけれど「あえて」「祈る」。「神の不在」に「祈る」というのが、ミスマッチで、面白くて、エモいんだろうな。気持ちは分かる。コンクリートの虚無の世界(雨が降っているとなおよい)で、存在もしない、限りなく無に近いような「聖」に祈りを捧げるというのは、ニヒリズムへの限界ギリギリの反抗だと思う。
南無阿弥陀仏は阿弥陀仏が僕たちのことを祈っている言葉である。祈る主体の反転。祈りのコペルニクス的転回のように思う。
「拝まない者もおがまれている拝まないときもおがまれている」(東井義雄)
南無阿弥陀仏は阿弥陀仏が僕たちのことを祈っている言葉である。祈る主体の反転。祈りのコペルニクス的転回のように思う。
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