差別
僕はティクナットハンという禅僧が好きなんだけれど、その禅僧が提唱する瞑想法に、こういうのがある。主にパートナーや友達と喧嘩したときに使う瞑想法で、最初に、自分たちの200年後を想像する。この時、どういう精神状態になるか。もちろん200年後において、お互いはこの世に存在しない。だから「今」共在していることが、奇跡のように思える。呼吸をしながら、相手が存在していることの喜びを味わう。喧嘩が終わる。「俺が正しくてあいつがおかしい」がなくなる。結局死ぬのだから、意固地になっても仕方ない。今、共に存在している時を喜ぼう。
みんな死んでいく。自分もあなたもあの人も。めくらもつんぼも乞食も女も男もみんな死んで行く。人間は「絶対的な弱者」じゃなかろうか。その「絶対的な弱さ」の中の、「相対的な弱さ」を比較してるだけなんじゃなかろうか。明日にでも死んでしまうかもしれないという人間の、自分の、あなたの、あの人の、「絶対的な弱さ」を自覚すれば、「すべては平等」という目を持つことが可能なんじゃないか。人はみな「絶対的な弱さ」の手のひらで踊っている孫悟空ではないのか。
仏から見れば、人間はみんな凡夫で「かわいそう」な存在である。あの人は「かわいそう」かもしれないけれど、それに負けず劣らず、自分も「かわいそう」である。だって結局死ぬのだから。
みんな死んでいく。自分もあなたもあの人も。めくらもつんぼも乞食も女も男もみんな死んで行く。人間は「絶対的な弱者」じゃなかろうか。その「絶対的な弱さ」の中の、「相対的な弱さ」を比較してるだけなんじゃなかろうか。明日にでも死んでしまうかもしれないという人間の、自分の、あなたの、あの人の、「絶対的な弱さ」を自覚すれば、「すべては平等」という目を持つことが可能なんじゃないか。人はみな「絶対的な弱さ」の手のひらで踊っている孫悟空ではないのか。
仏から見れば、人間はみんな凡夫で「かわいそう」な存在である。あの人は「かわいそう」かもしれないけれど、それに負けず劣らず、自分も「かわいそう」である。だって結局死ぬのだから。
死という
絶対平等の身にたてば
誰でも
許せる気がします
比べることもなく
抱き合える気がします——————鈴木章子
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