人生入門

生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です 短歌も書いてますhttps://www.utayom.in/users/9552アフォリズム体解https://note.com/yasurakani信心入門https://anjinsinjjin.hatenablog.com詩入門https://utagoe.hateblo.jp小説 結構頻繁に更新しますhttps://novel18.syosetu.com/n4490gu/哲学書読書計画今まで読んだもの丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス今年と来年中に読むもの西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深再来年中に読むものイタリア現代思想 アドルノ ヤスパース
生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です 

短歌も書いてます
https://www.utayom.in/users/9552

アフォリズム体解
https://note.com/yasurakani

信心入門
https://anjinsinjjin.hatenablog.com

詩入門
https://utagoe.hateblo.jp

小説 結構頻繁に更新します
https://novel18.syosetu.com/n4490gu/


哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

鏡 地獄 反省

 人は、病気や怪我、肉親の死などの限界状況へ突き当たると、「反省」をする。「一体世界とは何なのか?」「なぜ苦しくても生きなければならないのか?」など。それらの反省の根っこにあるのが「俺は一体なんなのだ?」という反省である。
 言うまでもなく、人間の一番の限界状況は「死」である。一人称の死である。だから、一人称の「俺」が死ぬ場面を瞑想することによって、純粋な「俺は一体なんなのだ?」が発せられる。
 各地域の死後の世界の神話に、「鏡」が出てくるのは象徴的である。仏教説話の一つによると、人間は死後、閻魔大王の前で、「鏡」を見させられるらしい。その「鏡」にうつった、自己の罪業によって、天へ行くか、地獄へ行くかが決まる。現在のスピリチュアル事情も似たところがあり、臨死体験のレポートなどでは、死後の世界で、走馬燈のように、自己の人生をビデオのようなもので、全て見るらしい。「死後」には「鏡」がある。「死」は「鏡」である。「死」から照射された光によって、「己」を省みなければならない。
 地獄を「おとぎ話」だといって、笑ってすませることもできるが、純粋な「鏡」を見た時に、笑って済ませられるだろうか。俺は死ぬ。この死ぬところの俺は一体なんなのだ?僕が鏡を見た時、そこに映っているのは、浅ましさ、自己中心性、怠惰、嫉妬、卑しさ、などの罪業ばかりである。「鏡」を見て、そこに「美人」がうつっている人など存在するのだろうか?
 地獄とは畢竟、死=鏡によって反射された己自身である。現世的快楽主義に生きている現代人よりも、「おとぎ話」の中で生きていた古代人のほうが、よっぽど自己の実存を深く省みていたと、僕は思う。

演じる 幾何学的な点

 太宰治で一番好きな作品はダントツで斜陽である。他の長編はあまり読んだことがなく、短編ばかり読んだけれど、短編では一番、女生徒が好きだ。女生徒で好きな一節。
ゼスチュアといえば、私だって、負けないでたくさんに持っている。私のは、その上、ずるくて利巧に立ちまわる。本当にキザなのだから始末に困る。「自分は、ポオズをつくりすぎて、ポオズに引きずられている嘘つきの化けものだ」なんて言って、これがまた、一つのポオズなのだから、動きがとれない。

 有名な人間失格は、僕はみんなが言うほど共感できなくて、ぴんとこなかったのだけれど、一つだけ共感できた部分がある。それは主人公の幼少期の描写だ。
 そこで考え出したのは、道化でした。
 それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。
 自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。つまり、自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を言わない子になっていたのです。

 ゼスチュア、ポオズ、道化。仮面、ペルソナ、建前。即自的な僕自身になることは、不可能で、僕はたえず、僕から逃走し続ける。僕は昔、自分の小説に、自分のことを「幾何学的な点」と書いた。ユークリッド幾何学における点は便宜上、目に見えるように書かれるが、理念的なものとしては、紙に書くことができない。「本当の僕」というのは無限小としては存在するかもしれないが、それは理念的には存在しない。経験的には存在するけれど、理念的には存在しない。幽霊だ。
 僕は家族や親族へ向かって、仮面を被っている。「無口で人のことが苦手な障碍者」としてふるまっている。家族は僕のことをそう思っているだろうけれど、この人は、僕が演じている役柄に過ぎない。多かれ少なかれ、人間はペルソナというものを持っているはずだけれど、僕自身については、自閉症だからか知らないが、幾何学的な点である僕と、この世に住んでいる僕とは、無限大の距離がある。

 ここまではいい。前提である。このような精神構造の人は、世の中にたくさんいるだろう。僕の近くにも一人いる。自分のことを「透明」だと表現している人間は多くいる。ただそれはあまりにも陳腐だし、なにより面白くない。
 解決方法が必要である。だって寂しすぎるから。ただしこれは言語では不可能だ。言語は、幾何学的な点の目の前を過ぎ去っていく風景にしか過ぎない。言葉は「言葉になった自分」に過ぎない。詩を書いても哲学書を書いても、詩や哲学は僕ではない。
 一つには、「自我を完全に滅する」という方法があると思う。これは俗に言う「悟りを開く」と言われる方法であり、修行をすることで可能になる。幾何学的な点が死ねば、仮面のほうはどうなるか知らないけれど、多分、役者が死ねば役柄も死ぬように、お互い滅するのだと思う。もしくは、無即全になるのかもしれない。問題点は、修行が、一般人では不可能であるということだ。僕は挫折した。
 もう一つには、死ぬという方法がある。「過去」は、「僕自身」である。凝固した「僕自身」である。僕自身でないのは、現在の僕である。現在の僕が、凝固した「僕自身」から絶えず逃れ続けるのが問題なので、思い切って死ねば、全てが過去になり、僕は僕自身になれる。ただ、僕は死にたくない。怖いから。
 僕がとったのは3つ目の方法で、それは南無阿弥陀仏である。清沢満之は、宗教は有限と無限の一致であるといい、鈴木大拙も妙好人にそのような境地を見出していたが、僕はそういう悟り的な解決ではなく、単純に「呼ばれる」という部分に魅力を感じた。「僕の全て」を知っている弥陀仏から、声をかけられる。「南無阿弥陀仏」とは、自分につけられた「名前」だと言われることも多い。「お前の全てを知っているぞ、引き受けるぞ、そのままでいいぞ、お前は南無阿弥陀仏だぞ」というのは、僕の本当の姿の肯定ではなかろうか。幾何学的な点が死ぬことはないけれど、僕は分裂しているそのまま、そのまま、「そのままでいい」と声をかけられる。安易な現状肯定ではないか?本当にそれで解決なのか?という声もするけれど、とりあえず僕は、これでもう「寂しくない」。仏の前では、もう演じなくていい、嘘をつかなくていい。ありがとう。
 

僕は僕になりたい

 僕は僕になれない。サルトルは、その絶望を執拗に、かつ精緻に分析している。めちゃくちゃ雑にパラフレーズすると、自分は「自分についての意識」であるから、自分自身とは必ず「分離」が存在している。仮に「過去の自分」を「自分」だとしてみても、本当の自分とは「過去の自分についての意識」だから、「過去の自分」から、ズレる。詩人になりたい人が、詩人になったとしても、自分は「詩人である自分についての意識」であるから、詩人である自分ではない。「それであるところであらぬもの」、「それであるところについての意識」が「自分」であって、「それ」に何を代入しても、それ「についての意識」が自分であるので、僕は何者にもなれない。僕は「僕自身」として存在しているのではなくて、「僕自身についての意識」として存在している。未来に措定された「僕自身」になったとしても、その途端にそれは「僕自身についての意識」へ失墜し、「僕自身」は未来へ先伸ばされる。僕は永久に僕自身になれない。
 
 昔、ブログに「自分自身の名前と自分の意識が一致しない人」が自分の同類だと書いたが、その永久に自分自身になれない人のことが、僕は大好きだ。こじらせている人が好きだ。何者かになりたくて、彷徨っている亡霊が好きだ。
ぼくは意地悪どころか、結局、何者にもなれなかった−意地悪にも、お人好しにも、卑劣漢にも、正直者にも、英雄にも、虫けらにも。かくていま、ぼくは自分の片隅にひきこもって、残された人生を生きながら、およそ愚にもつかないひねくれた気休めに、わずかに刺戟を見いだしている、−賢い人間が本気で何者かになることなどできはしない、何かになれるのは馬鹿だけだ、などと。さよう、十九世紀の賢い人間は、どちらかといえば無性格な存在であるべきで、道義的にもその義務を負っているし、一方、性格をもった人間、つまり活動家は、どちらかといえば愚鈍な存在であるべきなのだ。——————地下室の手記

 僕は確実にこの亡霊だけれど、僕は僕になることを、諦めていない。永久にたどり着けない僕自身という虚構を追いかけるのではなく、僕は僕自身になる。
 
 
愛は、それ自体においては死せる存在をわけ、存在を存在自身の前に置くことによって、いわば二重の存在となす。そうしてそれを、自ら見、自らを知る自我または自己となすのである。この自我性の内にすべての生の根源が存する。他方、愛は、この分けられた自我を緊密に合一し、結合する。自我は、愛なくしてはただ冷ややかに、また無関心に自らを見るに過ぎないであろう。この合一によってもその二重性は止揚されず、永遠に残るが、この二重性における一性こそ生である——————フィヒテ

 サルトルは非反省的な「自己についての意識」で、フィヒテは反省的な「自己についての意識」の話をしてるので、ここを接続するのは強引かもしれないけれど、僕は接続できると思う。「僕自身」と「僕自身についての意識」を合一させるのは、愛である。僕は二つのまま、一つになる。僕は僕になりたい。分裂した僕を、そのまま包み込むような愛が、あるはずだ…。南無。
 

孤独

 大乗経典の無量寿経には、こういう文句がある。独生独死独去独来。独り生まれ独り死し、独り去り独り来たる。まごうことなき真理であり、仏語というに相応しいと思う。一人で生まれて、一人で死んで行く。

 「身体」という絶対に超えられない壁がある。「意識」という絶対に超えられない壁がある。他者の歯の痛みは分からない。他人の病気の肩代わりをすることはできない。

 今日は、誰とも接することなく一日が終わった。寝てる間におばさんがご飯を買ってきてくれて、夕飯は父親の友達の弁当屋が配達しにきてくれたけど顔は合わせず、父親は出張、弟はどこかに泊まり。今日触れ合ったのは飼い猫ぐらいだ。僕は一人が好きだけれど、好きではない。猛烈に、寂しい。

 10代の頃に読んだ哲学書に、「合一」とか「脱自」という表現があった。妙に惹かれるものがあった。一者との合一。オーガズムにおける脱自。自分から抜け出て、神と一つになる。生まれてしまったものが、孤独を癒すには、これしかないんじゃないか。

 家族がいても、恋人がいても、絶対的な孤独というのは避けられない。誤魔化しているだけだ。家族と合一することはできないし、セックスは体液の交換でしかない。ああ、独生独死独去独来。どくしょうどくしどっこどくらい。悲しいぐらいに独生独死独去独来だ。独生独死独去独来と一人で呟いてると、涙が出てくる。嫌になるぐらい真理だ。

 身体がある限り、孤独は避けられない。癒されない。だったら死ぬしかない。千日回峰行という、死ぬほど過酷な行をした天台宗のお坊さんが、「私は死んだら比叡山の一部になる」と晴れやかに言っていたらしい。このお坊さんは、死んだら山の木々や小鳥と、意思疎通をして、寂しくない毎日を送るんだろうなと思う。死は救いなのかもしれない。

 どくしょうどくしどっこどくらい。口に出して言ってみてほしい。

 

僕のサルトル入門

 サルトルの「存在と無」を最近ずっと読んでいる。サルトルの思考方法にも慣れてきて、1500ページ中、300ページまで読んだ。大事だと思うところを自分的にまとめる。ただ「僕のサルトル」なのでそこは留意してほしい。この記事は随時更新していくと思う。

 サルトルで一番重要な単語は恐らく、「即自」と「対自」だろう。ヘーゲルから持ってきた概念で、サルトルもあれこれ苦心して説明しているが、一言でいえば、即自は「それであるもの」のことで、対自は「それであるところのものではあらぬところのもの」である。これでは分かりづらい。「それであるもの」の例を挙げると、「コカ・コーラ」「パソコン」「星」「勇気」「カフェのボーイ」などで、それであらぬところというのは「自分の意識(について)の意識」ということ。即自は分かりやすいが、対自は分かりづらいかもしれない。「自己への現前」と言ってもいい。自己というのは「それであるところのもの」「怒り」「信念」「カフェのボーイ」のことで、これら(についての)意識のことである。この「について」に()がついてるのは、それが反省的意識ではなくて、非反省的な意識のことだからである。反省的な意識というのは「自覚的に自己を省みる」ということで、非反省的というのは「無自覚的に鏡のように自己を映している」ということである。自己の前に「それであるところのもの」を置いて、その間に無が入る。「それであるところのもの」と、「鏡」の間に無の距離ができる。ここで「無」というのが出てくるが、これは「無」なので、サルトルは説明できないという。「無」は「無い」。
 非反省的な「鏡」に「それであるところのもの」がうつる。意識が主題なので、「それであるところのもの」は意識的なものに限ることとする。例えば僕が「信念」を持つとする。そうすると「信念であるところのもの」の前に「信念(についての)意識」が対自する。「信念」が「問題にされ」ると、その「信念」は「存在減圧」される。無化されると言ってもいい。「信念」が「対自化」されると、信念は「それではあらぬもの」に失墜していく。対自という鏡が、「それであるところのもの」という即自を、次々に「それであるところのものではあらぬもの」という対自へ変えていく。
 即自を「僕」としよう。「僕であるところのもの」。人間存在は、このような「価値」「全体性」へ向かって超出しようとする。だが、それが対自に捉えられた途端、「僕であるところのもの」は「僕ではあらぬもの」へ滑り落ちる、即自と鏡の間は「無」で隔てられているから。意識は脱自的である。僕は僕に、永久にたどり着くことはできない。即自を否定するのが対自である。
 僕は、即自的に僕であることが永久に不可能だけれど、それ故に絶対的な自由が可能になる。「僕であったところのもの」は「僕であったところのものではあらぬもの」へ滑っていく。対自的な意識は過去を無化していく。

現実

 家に引きこもって、哲学書や宗教書を読んでいると、「現実逃避」と言われることがある。ここで問題になってくるのは、「現実とは何か?」という問題である。僕の考える現実とは、徹頭徹尾「明日死ぬ存在」「無意味な生を送る存在」という意味である。釈迦はもう少し広げて生老病死と言ったが、似たようなものだ。僕の意識をもう少し厳密に言うと「今死んでも60年後に死んでも宇宙には全く関係がない」という現実である。厳然たる現実がある。地球は太陽に飲み込まれて生物はみんな死ぬ。これらが「現実」だとしたら、これから逃げている人のほうが「現実逃避」していることになる。
 僕に「現実逃避をするな」と言ってくる人の現実は、おそらく「苦しい人生を生きる」ことであろう。「苦しくても働け」ということだろう。最近障碍者センターの人が、家に来て、30分ぐらい話すことがあるのだが、その存在がここでいう「現実」の象徴になっている。僕は、この「現実」がめちゃくちゃ怖い。働くのも怖いし、自閉症だから人が怖いし、外に出たくない。

 パスカルは家に数時間じっとしていれば人生の虚しさが分かると言った。それが第一の現実。そして、人間は虚しさに耐えられずに「気晴らし」をすると言った。それが第二の現実。と言っていいかもしれない。

 「現実」は一つしかない。真実はいつも一つ!だ。前に相談員の人に「父親が死んだらどうするの?」と聞かれたときに「死ぬと思います。信仰があるのでいいところに行けると思います」と答えた。二つの「現実」がぶつかった瞬間だと思う。
 僕も、普通に働いて家族を作って、という現実があるのは分かる。でも厳然たる事実として、今死んでも60年後に死んでも全く等価という事実がある。僕は後者の「現実」をひっくり返すために7年間勉強をしまくっていて、それは何も間違ったことではないと思っている。

 「今死んでも60年後に死んでも全く等価」という現実から目を背けない生き方。「今死んでも60年後に死んでも全く等価」という現実から目をそらして、社会的役割の中で「自己」を見つけたつもりになっている生き方。これを調和させるには、「今死んでも60年後に死んでも全く等価」という「不幸な現実」を超えた見方を呈示して、それを社会に広めることだと思う。だからまずは、死という冷徹な現実を打ち砕かなければならない。
 僕はどちらの「現実」も怖い。死にたくない。人に会いたくない。

無常 不滅 表現

 表現をする人は「生きた証」を現実に叩きつけたいのだと思う。僕はそれは暴力的な営みだと思うし、儚い営みだとも思う。「叩きつける」という言葉が一番しっくりくる。刻み付ける、叩きつける、ぶっ叩く。いや、主語が大きすぎたかもしれない。けれども少なくとも僕の場合はそうだ。僕が詩を書くときは「死にたくない」「褒められたい」の2つの気持ちで、世界にぶちまける思いで書いている。イライラしているときに詩を書く。いい短歌が書けたときに妙に物悲しくなるのは、「不滅への渇望」と「現実」が齟齬をきたしているからだろう。「なんでこんなことしてるんだろう、どうせ誰も見ていないし、みんな死ぬのに」
 テレビで昭和の名曲イントロクイズをしていて、どれだけ持て囃された曲でも、時代が変わればイントロクイズになるんだなと思って悲しくなった。表現をしている人は、虚しくならないんだろうか。
 僕の考える表現は、永遠への志向、の挫折、故の虚しさ、だけれど、他の人は「虚しさ」を紛らわせるために「気晴らし」で表現をしているのかもしれない。

バカ

 馬鹿にも2種類いると思う。「直接性」と「反省性」という概念から考える。
 直接性に生きている人間は、馬鹿だ。素直な馬鹿と言っていい。直接性というのは当たり前すぎて、説明するのが難しい。
 ソクラテス的に言うと、「自己の魂の気遣いをせずに生きている人」のことだ。パスカル的に言うと「気晴らしで生きている人」のことで、ハイデガー的に言うと「頽落している人」のことで、普通に言うと、「何も考えずに付和雷同に生きている人」のことだ。本能的に生きていると言ってもいい。僕は「反省」をすると「恥」が生まれるものだと思うけれど、仏教では「恥」のことを専門用語で「慚愧」といい、「慚愧」のない生き物のことを「畜生」という。動物的に生きている人。「そのまま」生きている人。

 反省というのはこの「直接性」に亀裂が入って、「自己自身」が問題になっている人。チンパンジー以下の知能の動物は、鏡を見せても、同種の別の個体だと認識するらしい。チンパンジーもかろうじて自己だと認識するぐらいで、人間ほどではない。そういう意味では人間は「鏡を見る存在」「省みる存在」と言っていいかもしれない。
 直接性から反省性に行くには、気晴らし的な生をやめて「魂を気遣う生活」をする必要がある。そのためにはまず、人は本を読むだろう。文学書や哲学書、宗教書を読んで、自己自身を知ろうとする。そして、この段階の人は、「直接性」に生きている人、「何も考えてない人」をバカにするようになる(ことが多い)。「俺はこれだけ世界のことを知って自己省察をしてるのに、あいつらはなんだ。」いわゆる「賢い人」が出来上がる。
 けれども「反省」を続けていくと、己の「見たくない部分」がどんどん出てくる。本当の自分が見えてくる。限界が見えてくる。「妄念はもとより凡夫の自体なり」と源信僧都が言われたように、人間は自己中心的な妄念に、目鼻がくっついている物でしかない。最後に、「己は他者に迷惑をかけて、親不孝もので、何も知らず、知者ぶっていた、本当のバカものだ」と気づかされる。

 馬鹿な直接性→賢い反省性→馬鹿な反省性という風に、弁証法的に進んでいくものだと思う。愚→賢→愚と進んでいくが、最初の愚と最後の愚は恐らく違う。最初の愚から反省性に行くには、身内の不幸や自己の病気、死の恐怖などの契機が必要な気がする。
 愚のまま大地に帰っていく。それが一番の幸せだと思う。

誕生

 甥っ子が産まれた。写真を見せてもらったけど、目が開いてなくて、しわくちゃで、生まれたばっか〜って感じだった。
 芥川龍之介は自分の長男が生まれた時に、「何の為にこいつも生れてきたのだろう?
 この娑婆苦の充ち満ちた世界へ」と思ったと聞いたことがあり、僕も甥っ子が産まれたら、同じような感想を持つんだろうなと思っていたけれど、そこまでシニカルにはなれなかった。元気な男の子が生まれてきてよかった。嬉しい。
 これで僕の遺伝子の4分の1は後世に残せたわけだけれど、姉貴は嫁いでいるので、この家の存続は僕か弟が子供を産むしかない。僕はまあ結婚はできないと思うので、家を存続させるのは弟に期待したい。
 
 昨日、初めて母親のLINEを見返して、母親が死んでから一番泣いた。LINEのやりとりが、まるで生きてるみたいだった。この前古事記を読んだのだが、イザナミが「お前の国の国民を1500人毎日呪い殺す」と喧嘩を売ったらイザナギが「じゃあ私は1500人生まれさせよう」と言ったらしい。生き死には神の領域のことだから、仕方がない。
 母親は孫に服とかいろいろ買ってあげたいと言っていたので、それができなかったのが残念だけれど、よく言う言葉で言うと、「命のリレー」が続いていってよかった。何がいいのか、なんでいいのかはよく分からないけれど、多分いい事なんだと思う。

求道 機と法について

 浄土真宗では、「機」と「法」という言葉が非常に重要な意味を持っている。求道の上でも、これほど重要な言葉はない。「機」というのは自分の心という意味で、「法」というのは、弥陀佛のお助けのことである。これが一つになることを「機法一体」と言う。自己と阿弥陀が一体になり、お助けが決定したことになる。
 「機」と「法」がごちゃごちゃ問題になりだしたのは、恐らく明治以後の辺りで、親鸞聖人や蓮如上人は、そこまで細かく機と法の関係を分析しているわけではない。
 ここで事態を物凄くややこしくしているのが、この「機」というのは、宗教的な意味と、倫理的な意味の2つの意味で使われることがあるということである。疑いというレベルで「機」という言葉が扱われることと、煩悩というレベルで「機」という言葉が扱われることがある。親鸞は歎異抄で「善人よりも悪人が救われる」と説いたが、これは「煩悩」のレベルの「機」の話で、「疑い」のある「機」が救われると言ったわけではない。ここが非常に誤解されている。お坊さんでも、疑心往生を説いている人が多い。
 
 信者めぐりという有名な本があるのだが、その本によく出てくる言葉に「もったまんまの幸せ」という言葉がある。これは「機」がどれだけ疑いでもつれていても、「法」がしっかりとしているので、「そのまま助かる」という主張である。求道していない人にとっては、「阿弥陀仏なんて心の中にしかいない(認識できない)んだから、機のほうで阿弥陀仏を危うんでいるなら、法のお助けもなくなるのでは?」と思う人もいるだろうが、どういう原理か、自分の機がもつれていても、「お助け」はそのまま照っているという状況は実際にある。「ほんまかなあ」と思いつつ、「お助けの光」を受けているような状態。これを信者めぐりは「持ったまんまの幸せ」と言ったのだと思う。
 これを批判する人は、これを法体募りというだろう。僕もそうであると思う。機に仏智が満入しなければ、信心決定とは言えない気がする。
 
 最近読んでいる大沼法龍師は、これを20願の分際だと言う。法のお手元は確かでも、機の方がぐずぐずなのは、まだ信心が決定していない。20願から、18願に転入しなければならない。けれども、自力でこの「なんともならない機」を「はい、助かります」と言わせることはできない。この「機」はどうにもならない。僕は現在、20願の分際であると思う。けれども「法のお手元」は疑っていないので、「もったまんまの幸せ」と自分を撫でつけることはできる。だけれどそれでいいのかなあという気持ちがある。焦ってもしょうがないけど、早く助かりたい。
 信仰の難しいところは、こういう理屈は分かっても、本当に自分で体験しないと意味がないところだ。
NEW ENTRIES
幻想主義者(02.13)
お釈迦さまとの対話(02.07)
なぜ苦しいのに生きなければならないのか(01.30)
人生の目的(01.25)
宗教 疑い(01.23)
仏教とは認知療法である(01.22)
親ガチャ(01.22)
オーバードーズ(01.17)
シオランと坐禅(01.17)
孤独(01.15)
RECENT COMMENTS
ARCHIVES
RSS
RSS