僕のサルトル入門
サルトルの「存在と無」を最近ずっと読んでいる。サルトルの思考方法にも慣れてきて、1500ページ中、300ページまで読んだ。大事だと思うところを自分的にまとめる。ただ「僕のサルトル」なのでそこは留意してほしい。この記事は随時更新していくと思う。
サルトルで一番重要な単語は恐らく、「即自」と「対自」だろう。ヘーゲルから持ってきた概念で、サルトルもあれこれ苦心して説明しているが、一言でいえば、即自は「それであるもの」のことで、対自は「それであるところのものではあらぬところのもの」である。これでは分かりづらい。「それであるもの」の例を挙げると、「コカ・コーラ」「パソコン」「星」「勇気」「カフェのボーイ」などで、それであらぬところというのは「自分の意識(について)の意識」ということ。即自は分かりやすいが、対自は分かりづらいかもしれない。「自己への現前」と言ってもいい。自己というのは「それであるところのもの」「怒り」「信念」「カフェのボーイ」のことで、これら(についての)意識のことである。この「について」に()がついてるのは、それが反省的意識ではなくて、非反省的な意識のことだからである。反省的な意識というのは「自覚的に自己を省みる」ということで、非反省的というのは「無自覚的に鏡のように自己を映している」ということである。自己の前に「それであるところのもの」を置いて、その間に無が入る。「それであるところのもの」と、「鏡」の間に無の距離ができる。ここで「無」というのが出てくるが、これは「無」なので、サルトルは説明できないという。「無」は「無い」。
非反省的な「鏡」に「それであるところのもの」がうつる。意識が主題なので、「それであるところのもの」は意識的なものに限ることとする。例えば僕が「信念」を持つとする。そうすると「信念であるところのもの」の前に「信念(についての)意識」が対自する。「信念」が「問題にされ」ると、その「信念」は「存在減圧」される。無化されると言ってもいい。「信念」が「対自化」されると、信念は「それではあらぬもの」に失墜していく。対自という鏡が、「それであるところのもの」という即自を、次々に「それであるところのものではあらぬもの」という対自へ変えていく。
即自を「僕」としよう。「僕であるところのもの」。人間存在は、このような「価値」「全体性」へ向かって超出しようとする。だが、それが対自に捉えられた途端、「僕であるところのもの」は「僕ではあらぬもの」へ滑り落ちる、即自と鏡の間は「無」で隔てられているから。意識は脱自的である。僕は僕に、永久にたどり着くことはできない。即自を否定するのが対自である。
僕は、即自的に僕であることが永久に不可能だけれど、それ故に絶対的な自由が可能になる。「僕であったところのもの」は「僕であったところのものではあらぬもの」へ滑っていく。対自的な意識は過去を無化していく。
サルトルで一番重要な単語は恐らく、「即自」と「対自」だろう。ヘーゲルから持ってきた概念で、サルトルもあれこれ苦心して説明しているが、一言でいえば、即自は「それであるもの」のことで、対自は「それであるところのものではあらぬところのもの」である。これでは分かりづらい。「それであるもの」の例を挙げると、「コカ・コーラ」「パソコン」「星」「勇気」「カフェのボーイ」などで、それであらぬところというのは「自分の意識(について)の意識」ということ。即自は分かりやすいが、対自は分かりづらいかもしれない。「自己への現前」と言ってもいい。自己というのは「それであるところのもの」「怒り」「信念」「カフェのボーイ」のことで、これら(についての)意識のことである。この「について」に()がついてるのは、それが反省的意識ではなくて、非反省的な意識のことだからである。反省的な意識というのは「自覚的に自己を省みる」ということで、非反省的というのは「無自覚的に鏡のように自己を映している」ということである。自己の前に「それであるところのもの」を置いて、その間に無が入る。「それであるところのもの」と、「鏡」の間に無の距離ができる。ここで「無」というのが出てくるが、これは「無」なので、サルトルは説明できないという。「無」は「無い」。
非反省的な「鏡」に「それであるところのもの」がうつる。意識が主題なので、「それであるところのもの」は意識的なものに限ることとする。例えば僕が「信念」を持つとする。そうすると「信念であるところのもの」の前に「信念(についての)意識」が対自する。「信念」が「問題にされ」ると、その「信念」は「存在減圧」される。無化されると言ってもいい。「信念」が「対自化」されると、信念は「それではあらぬもの」に失墜していく。対自という鏡が、「それであるところのもの」という即自を、次々に「それであるところのものではあらぬもの」という対自へ変えていく。
即自を「僕」としよう。「僕であるところのもの」。人間存在は、このような「価値」「全体性」へ向かって超出しようとする。だが、それが対自に捉えられた途端、「僕であるところのもの」は「僕ではあらぬもの」へ滑り落ちる、即自と鏡の間は「無」で隔てられているから。意識は脱自的である。僕は僕に、永久にたどり着くことはできない。即自を否定するのが対自である。
僕は、即自的に僕であることが永久に不可能だけれど、それ故に絶対的な自由が可能になる。「僕であったところのもの」は「僕であったところのものではあらぬもの」へ滑っていく。対自的な意識は過去を無化していく。
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