人生入門

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哲学書読書計画
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丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

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再来年中に読むもの
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ニヒリズム

今朝、眼を覚ますなり第一に考えたこと。すなわち、人間がかつて得たもっとも深い直観は、すべては気晴らしという直観であるということ。あらゆる約束、あらゆる幻想にまさるもの、それは結局のところ、"それが何になる?"という平凡な、それでいて恐ろしいリフレインだ。この、"それが何になる?"は、この世の真理であり。端的に真理そのものだ。私は五十七年間生きてきたが、白状すれば、これにまさる哲学の啓示にあずかったことはない。————シオラン

 人から「思考の深化ができてるから賢い」と言われたんだけど、「虚無」というものに、深みなどあろうはずがない。「それが何になる?」の一言で全ては言い尽くされ、僕が注釈することは、何もない。
 ごはんを食べる。それが何になる?会社へ行く。それが何になる?受験に合格する。それが何になる?高校を中退して7年間引きこもる。それが何になる?セックスをする。それが何になる?生きる。それが何になる?ブログを書く。それが何になる?
 シオランと同じようなことを言いながらも、「ペシミズム」に陥らずに、カラっと生きている人の言葉を引こう。
「坐禅して何になるか」 この「何になるか」という問いが第一、中途半端じゃ。テレビが発明されて何になったか?おまえが生まれて何になった? 何になるものは一つもない。————澤木興道

 それが何になる?ナンニモナラヌ。シオランと澤木興道は、同じことを主張しながらも、生き方や人生観に雲泥の差がある。「ニヒリズム」は、一種の中立的な状態である。「ナンニモナラヌ」からは、否定も肯定も生まれない。ニヒリズムからは2人の子が生まれる。ペシミズム、オプティミズム。松塚豊茂が、自分はニヒリズムを通り抜けたブディストだと言っていたが、ニヒリズムを通過する道程で、差が生まれる。
 シオランと、澤木興道の、決定的な差はなんなのか、僕はまだ分からない。一方は、苦悩を賛美するキリスト教国に生まれ、もう一人は、苦悩から解脱しようという仏教国に生まれたのが、差の原因かもしれない。シオランも、解脱に憧れは在ったが、結局ぐずぐず世の中を嘆いているだけだった。
 OSHOという、20世紀に活躍した宗教家がいるんだけれど、そのOSHOが言うには、「悟り」を開くと、「答え」が分かるのではなく、「問い」が消滅するらしい。それが何になる?が消滅する。それは確かに救いだ。動物は生を生きていて、人間は疑問符を生きているが、この疑問符が完全に消滅すれば、人間も生を生きられるようになる。人間の反省性は修行により滅し、直接性に生きられるようになる。

 浄土教徒は、「生まれた。それが何になる?」の答えを多分持っている。それは「阿弥陀仏に出会えた」ことだろう。「それが何になる?」という一見素朴な問いには、「無限の智慧」で答えるしかないのだと思う。
「お前が生まれてなんになった?」
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」

思想 救済

 全ての思想は、「救済」に眼目があると思う。神的なもの、と言っていいかもしれない。一人ずつ点検していこう。
 ソクラテスは、「智慧」や「徳」を神の位置に置いた。それらを手に入れられれば、幸福な人生を送ることができ、来世があれば、いい場所に行ける。
 プラトンは、「イデア」を神の位置に置いた。特に、善のイデアを体得することが、人間の絶対目標である。
 アリストテレスは、「観想」を神の位置に置いた。哲学的思惟をする観想こそ、幸福な生活にかかせないものである。
 エピクロスやストア哲学者は、方法こそ違うものの「平静(アタラクシア)」を神の位置に置いた。
 プロティノスは、「一者」を神の位置に置いた
 デカルト〜キルケゴール間の哲学者は、キリスト教的な神を救済原理とした。
 ニーチェは、「超人」を、神の位置に置いた。
 ウィトゲンシュタインは、「語り得ぬもの」を神の位置に置いた。
 ヴェーダ哲学は、「梵我一如」を神の位置に置いた
 仏教は「解脱」を神の位置に置いた
 etc...

 世界には膨大な思想があるけれど、僕はそれらの全てが「救済」を志向しているように思う。救済という言葉が強いのならば、「絶対的な幸福」と言ってもいい。パスカルが言ったように、首を吊ろうとしている人間さえも、幸福を求めている。アリストテレスが言ったように、「目的の目的」は「幸福」である。「思想活動」だけが、その例に漏れるということがあるだろうか?僕はないと思う。全ての行為は幸福=救いを求めて行われるものであるし、思想活動もご多分に漏れない。
 知的作業に汲々としているように見える分析哲学や、純粋科学でさえも、アリストテレス的な観想を、自己の救済原理としているのだと思う。僕は、「知的好奇心」という言葉を胡散臭い言葉だと感じる。何かしらの「飢餓感」があるのだと思う。
 
 きゅう さい きう− [0]【救済】
( 名 ) スル
@困っている人を助けること。 「難民を−する」
A 〘宗〙 単なる現世利益(げんせりやく)をもたらす段階にとどまらず、人を不幸な状態から解放し、幸福さらには生きる意味を与えること。救い。済度(さいど)。

 村上春樹が、「文学は、空腹には勝てない。空腹を紛らわす娯楽が文学だ」みたいなことを言ってたが、思想というのもそんなもんなのだと思う。救いというのは、アンパンマンだと言っていいかもしれない。お腹が空いている人へ、食べ物をあげる。肉体的、精神的な飢餓感が大元にあり、それを解消するために動く。精神的な飢餓を満たすのが、思想である。それ以外に思想の意義はないと思う。心のお腹が空いたら、思想を食べる。
 けれども、質のいい食べ物を食べたほうがいい。本当の「救済原理」とは何なのか?知的パズルに救済を感じる人もいるだろうけれど、僕は、南無阿弥陀仏を食べられれば、それでいい。
 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13〜14)


 
 

売春

生きることを受け入れたからには、売春を受け入れなければならない。私に言わせれば、自殺者以外はみな売春婦ですよ。売春にも程度はあるでしょうけど、あらゆる行為が客引きのようなものであることは明白です。———シオラン

あらゆる創造の衝動には、いささか売春めいたところがある。ちょっとした才能のあるものはだれもそうだが、神にしてもそうだ。純粋なままでいたいと思うなら、自分をさらけだすべきではあるまい。———シオラン

 シオラン流のペシミズムはあまり好きではないんだけれど、血迷ってシオランbotをフォローしたとき、この文言が流れてきて、妙に得心がいった。生きる事を受け入れたからには、売春を受け入れなければならない。売春は、生の根本要件だと思う。売春の特徴をあげよう。
@媚びる
A痴態を晒す
B対価を貰う
 シオランが言っているように、売春にも程度があるんだろう。売春ゲージ、売春スペクトラムというものがある。
 僕が売春ゲージが高いと思うのは、文筆家、アーティスト、画家、大臣、などだけれど、生きている限り、この「売春」からは逃れられないんだろう。「生きる」こととは、本来恥ずかしいことなんだろう。Twitterで流れてきたネタツイートにも「売春」を感じるし、オモシロ漫画にも売春を感じるし、生は全部、「恥ずかしい」。
 売春と、自殺の間にスペクトラムがある。売春———自殺間に無限のグラデーションがあり、人はその中のどこかに位置付けられながら生きる。僕は、文学者などがよく自殺するのは、この売春に耐えられなくなったからであると思う。生を凝視し続けると、根底の売春が炙り出され、その売春を物語化するのが文学といえるが、その文学を物語るのもまた売春なので、最後には自殺するしかなくなる。もちろんこのブログを書くのも売春であるし、これをツイッターに貼りつけるのも売春である。みんなが売春婦を軽蔑してるのは、ただ、自らの売春性を隠すために、スケープゴートにしているだけなのかもしれない。

 生の売春性。これで自殺をした東大生を知っているけれど、僕はそうはならないように、生きる方法を探した。その結果が、坐禅と念仏だった。自殺に限りなく近い、「純粋」な生がある。限りなく自殺に近い人生。限りなく自殺に近く、口だけ開けて雨と埃だけ食って辛うじて生きる人生。ただ座る。ただ念仏。自殺に近い生き方。自殺そのもののような生き方。僕は本当に惨めだ。

 罪と罰に出てくるソーニャは、売春婦だが、光を見失わずに、純粋に生きていた。それは、キリスト教への信仰故だった。生は売春である故に、必ず「慰め」が必要になる。それを宗教心というのだろう。

 
  

引きこもり

 俺は、翼をもがれている。毎日、日が昇って目を覚まし、暗くなったら寝る。その繰り返しで、生活に張り合いがない。朝、家族が出かける前に「おはよう」と言ってくるので、俺も「おはよう」と返事をする。一日の中で発する言葉はそれぐらいで、あとは誰とも会話をしない。

 母親とは、生まれた直後に諸事情で離ればなれになってしまったので、孤独には慣れた。劣等感なんていう高級なものも持ち合わせていない。なんせ、俺と比べる相手がいないのだから、誰にも劣等していない。家族が仕事へ行っている間、俺は、部屋の中で、哲学らしきものをしてみることもある。窓から少し見える青空を眺めながら、母親のことを考えながら、食べて寝るだけの人生に、意義というものがあるのかどうかを、ふと考えてしまうこともある。こういう思考は本当に「ふと」襲ってくるもので、おそらく、ソクラテスの「ダイモーン」もこんな感じだったのだろう。突然の、異世界からの異物の、思考への侵入。思考とは、自発的なものではなくて、他者からの贈り物である。だけれど、俺にとって他者とは、たまに顔を突き合わせて喋る程度の家族しかいないのだから、皮肉なものだ。部屋にこもって、刺激がないと、新しい思考も生まれない。どんどん自閉していくのが分かる。自己の内面を見つめるほど空虚で、体の中も、精神の中も、もみ殻のように空っぽだ。3秒で全てを忘れてしまうようなお粗末な脳みそに、サアっと思考の風が吹く。「今日のご飯はいつ頃だろう」というのが主な内容だが、たまに「外の世界はどうなっているのだろう」「俺も羽ばたける日が来るのだろうか」「なぜ生きているのだろうか」という、鈍色の風も吹く。昨日は昨日の風が吹いて、今日は今日の風が吹く。

 ストレスがたまると、暴れてしまう。暴れたあとに、「切れる引きこもり」という紋切型の存在になったような気がして、すうっと、存在が薄くなる。

 「ただいまー」家族が帰ってきた。

 「ピーちゃん。今日も元気にしてた?」

恐怖 脆い 安心

名声を手に入れたり 人を支配したり 金もうけをするのも安心するためだ
結婚したり 友人をつくったりするのも安心するためだ
人のために役立つだとか 愛と平和のためにだとか すべて自分を安心させるためだ
安心を求める事こそ人間の目的だ—————DIO

 「自分」が「安心」するために生きる。芥川龍之介は、「将来へのぼんやりとした不安」のために自殺したが、将来という不安定なものに、安心ができなかった。
 「安心」するためにはどうすればいいか?この「安心」を脅かすのは、世界の「脆さ」だと思う。DIOは名声や人や金儲けを「安心」する手段として置いているが、それらは全てが「脆い」。世界は全て、砂で出来た城だ。「日常」という、砂でできた城が、最近、コロナウイルスという「無」の侵入で、ほろほろと崩壊している。世界は、脆い。ずっと生きているだろうと思っていた母親は47歳で死んでしまった。ずっと仲良しだと思ってた友達は、離れていった。人間も、物も、関係も、愛も、平和も、日常も、全てが砂上の楼閣で、僕を「安心」させてくれるものは、何もない。
 「自分」はどうだろうか?僕が「信仰をしている」というと、「私は自分しか信じていない」と言われることが多々あるけれど、自分は、「脆くない」存在だろうか。そんなことはない。明日、交通事故で、足がなくなるかもしれない。精神病になって、首を吊るかもしれない。

 安心するためには、相対的な脆いものではなく、「絶対的なもの」が必要になる。絶対的なものとはすなわち、無か全である。無をたよりにするのが、「自殺」であり、全をたよりにするのが、「信仰」である。DIOの言うように、もしも人間が「安心」を求めて生きるのであれば、この2つに行きつかざるを得ない。他は中途半端だ。
 ニーチェが「自殺を思うことは、優れた慰めの手段である。これによって人は、数々の辛い夜をどうにか堪え凌ぐことができる。」と言っていたが、無を瞑想するということは、それだけで「安心」する効果がある。けれども一番安心するのは、やはり実行したときだろう。安心も不安もない、絶対的な無の中に沈む。不安からの逃避としての自殺。
 もう一つは絶対者を信じるということだが、自殺をしないならば、こちらを選ぶことになる。「脆くない」絶対者をたよりにするという安心感。「安心を求めることこそ人間の目的」ならば、絶対者をたよりにするしかないだろう。

 最近、若者のカルチャーで、「あんしん」とか「大丈夫」という言葉をよく聞く。誰かから、安心を付与されたいのだと思う。それは恋人ではないし、アーティストでも自分でもない。イエスが原罪を背負って死んでくれたし、法蔵菩薩が永劫の修行をしてくれたし、きっと大丈夫。

 「大丈夫」「安心」になる仕掛けは、用意されている。

賢さとは?

 賢さとは何ぞや。知性とはなんぞや。多分答えはないんだろうけど、個人的には、賢さというのは無知の知、だと思う。
 現代社会は、学問が細分化、専門家されて、17、18世紀のような「万能人」はいなくなった。万能人という概念はルネサンス辺りで称揚されてたらしいけれど、ライプニッツが最後の万能人だと言われている。ライプニッツを最後に、「学問の全てに精通している」人はいなくなった。だから「専門バカ」という言葉が誕生したんだろう。この前も哲学者が誤った確率論を言っていてツイッターで少し炎上していたが、こういうことはよくある。
 哲学に精通していても、馬鹿だ。科学に精通していても馬鹿で、経済学に精通していても馬鹿だ。現存する知識を全て蓄えることなど不可能なのだから、というよりも、どれだけ勉強していても、「知っていること」よりも、「知らないこと」のほうが膨大なのだから、どれだけ知識を蓄えても、知識だけ持っている人は馬鹿だ。

 「賢さ」とは、「知識」ではなくて、「態度」であると思う。無知の知というのは、態度だ。無知の知から派生するのが、「対話」や「信仰」であり、それらは「寛容」という態度へ向かっていく。反対に、「傲慢」は馬鹿だ。知らないことのほうが多い「知識」を盾にして、「傲慢」という態度をとるのは愚の極みだ。
 だから、歴史上で一番賢い人は?と聞かれれば、ソクラテスやイエス、法然や親鸞であると答える。ソクラテスは、虚心坦懐に、誰とでも対話をした。法然や親鸞の「賢さ」については、清沢満之のこの文章を読めばよく分かる。
私は何が善だやら何が惡だやら、何が眞理だやら何が非眞理だやら、何が幸福だやら何が不幸だやら、何も知り分る能力のない私、隨つて善だの惡だの、眞理だの非眞理だの、幸福だの不幸だのと云ふことのある世界には、左へも右へも前へも後へもどちらへも身動き一寸することを得ぬ私、此私をして虚心平氣に此世界に生死することを得しむる能力の根本本體が、即ち私の信ずる如來である。—————我が信念

 無知の知や、己の愚を自覚するのは、畢竟、愛に繋がるのだと思う。ソクラテスは、知への愛へ、イエスは神への愛、隣人への愛へ…。
 キリスト教のGOD、浄土教の阿弥陀仏などは、「全知全能・仏智」と「アガペー・慈悲」を両立させている。賢さとは、意外と、「愛」なのではないか?



 ここからは完全に僕の性癖なのだが、僕が個人的にカッコイイと思うのは、人よりも「相対的」に「知識」があるのに、それをおくびにも出さない人だ。一言でいえば、「能ある鷹は爪を隠す」ような人のことだ。博覧強記の人が、馬鹿の仮面を被っていると、カッコイイ。僕もこういうカッコイイ人になりたいが、知識もないし、見栄っ張りなので、来世に期待したい。
 

努力論

オー!ノーッおれの嫌いな言葉は一番が「努力」で二番目が「ガンバル」なんだぜーッ———————ジョセフ・ジョースター

 僕は努力が嫌いだ。頑張ったことがない。高校生の頃は、1日に5,6時間勉強して、成績も普通に良かったけれど、それを「努力」だと思ったことがない。高校生が勉強をするのは当たり前だと思っていたし、勉強をするのは楽しかったし、別に人のために何か役に立つことをしていたわけではないから。
 「努力」は「尊い」か?昨今の、努力努力うるさい社会のことを「努力教」と呼んでいる人もいるように、それは自明なことではない。努力が尊いと言われている理由は、2つあると思う。1つはそれが「苦行」だからで、もう1つはそれが「利他的」だから。

 人間社会は「苦行」をしている人を賞賛するという、謎の本能を持っている。インドの宗教者などが典型で、他にも修道院の中で禁欲しているクリスチャン、滝行などをしている修行者などを褒めたたえる文化がある。ただし、これは「能動的」に自ら苦しんでいる人にしか当てはまらず、「受動的」に苦しんでいる人、病人や老人などには当てはまらない。日本で苦行と言えば、千日回峰行が有名だろう。山を千日のぼっても誰の役にも立たないが、「めちゃくちゃ苦しいから」という理由で「偉い」ということになる。
 僕はこの「苦行」は偉くもなんともないと思う。人類社会に普遍的である、この「苦行」をしている人を賞賛したくなる衝動というのは、何かしらの生物学的な根拠があるのだと思う。進化心理学などでは解明されているかもしれない。でもこれは無用の長物だと思う。現に釈迦は、悟りを開くために苦行を捨てた。

 利他的だから尊い。僕は「努力」が尊くなるのは、この一点だと思う。この前Twitterで「受験勉強をしている人は何も偉くない。自分が成功者になりたいから頑張ってるだけじゃん」と発言してだいぶひんしゅくを買ったが、人のため、社会のために受験勉強を努力している人は偉いと思う。僕は自分が受験勉強しているときは、そんな意識は微塵もなかった。ネット上でも「肩書が欲しいから」「勝ち組になりたいから」という理由ばかり見るので、「人の役に立つために研究がしたいから」などという菩薩のような人は極めて少数だと思う。
 菩薩という言葉を使ったが、「菩薩」というのは大乗仏教で利他行をする人のことを指す言葉である。仏教には、「小乗仏教」と「大乗仏教」があって、大乗仏教は、小乗仏教を「自分自身の悟りしか考えていない利己主義者」だといって痛烈に批判した。仏教では努力のことを「精進」というが、この精進が自分のためだけに使われると、「小乗」になる。つまり、自分しか乗ることのできない悟りのボートに乗る。逆に大乗仏教徒は、大きな船を「精進」して作って、自分よりも他者を優先して、悟りに至らせようとする。「尊い」努力かどうかは、ここが分かれ目だと思う。小乗か、大乗か。

 最初に書いたが、僕は努力が嫌いである。苦行もしたくないし、人のために何かできるほどできた人間でもない。そんな僕のために、過去の永劫の間、大乗的精進をしてくれた菩薩がいるとお経に書いてあるので、僕はその人に甘えようと思う。

 

まなざし 恥じらい

純粋な羞恥は、これこれの非難されるべき対象であるというのではなくして、むしろ、一般に、一つの対象であるという感情であり、私が他者にとって、それであるところのこの存在、下落した、依存的な、凝固したこの存在の内に、私の姿を認める時の感情である。—————存在と無

 サルトルの、「対他存在」という概念についての部分を最近読んでいる。サルトルの議論は、ヘーゲルの「主人と奴隷論」からの影響を受けているらしく、いくぶん「闘争的」「相剋的」なきらいがある。他者の「まなざし」の圏域に置かれることで、自分の「可能性」「存在」というものが奪われる。これをサルトルは「他有化」という。僕の実生活に当てはめて考えてみる。 
 僕は引きこもってツイッターしかしていないので、ツイッターで考えることにするが、僕のツイートは常に300以上の「まなざし」に晒されている。「まなざし」は確かにほとんどの場合「眼球」に限られるが、この場合は画面の向こう側(というか画面そのもの)に「まなざし」があるし、「まなざし」は決して眼球に限られるものではない。
 僕は面白いと思って、「キュウリのリンゴ。キュウリンゴ。」とツイートしようとする。けれども、やっぱ他人に「つまらないな」と思われるのが嫌で、ツイートをするのを諦める。これが他者による自分の「可能性」の他有化である。いや、やっぱり面白いかもしれない、と思い、自分の可能性を優先し、ツイートしても、全然いいねが来なかったとする。そうすると僕は「羞恥」に襲われて、ツイートを消す。僕の「自由」は、他者の「まなざし」の「自由」に犯されている。僕は、他者の「対象」になってしまい、それゆえ、他者の奴隷になる。
 考えてみると、ツイッターほど「まなざし」による他有化が顕著な場所はないかもしれない。他者の「いいねをする、しない自由」のまなざしによって、自己が奴隷化される。自己の可能性が、他者の可能性に所有される。だから、フォロワーが増えたアルファなどは、サブ垢を作りがちだ。
 
 このようにサルトルの議論は、悲観的というか、闘争的というか、「まなざし」にがんじがらめにされて身動きのできない自分、という悲劇的な様相を呈している。
 サルトルの「脱自的意識の自由」という文脈からは大きく外れるけれど、僕はサルトルとは逆に、サルトルのこの「対他存在」という概念で、自己認識が深まるということを考えてみたい。合わせて宗教のことも考えてみたい。

 人間は、自己自身を見ることができない。鏡が自分を映せないように、眼が自分を見れないように、自分のことを本当の意味で見ることができない。自分を「対象」として見ることができない。自分は絶対的な主観である。この自己が「対象」になるのが「他者」へ現前する場合である。もちろん他者は僕を「対象」として見る。
 僕が「対象」になるのは、他者の前だけである。だから僕が自分を「対象」として見るには、「他者」という媒介が必要になる。
 ところで、神は絶対的な他者である。サルトルは無神論者なので、「現実性を欠いている」といって切って捨てているが、まあ絶対者がいるとする。絶対者は普遍的な「まなざし」である。常に自己を「見ている」のが、神である。信仰者は常に、「まなざし」を向けられている。自己は常に、対象化される。
 僕の信仰している浄土真宗では、「あさまし」とか「はずかし」ということがよく言われる。信心を得ると、自分の罪悪や煩悩が、仏智に照らされて、よりハッキリ見えるようになる、とかも言われる。僕はこれは、絶対者が時間的空間的に偏在しているからという理由と、絶対者は「心の中」にまで「まなざし」を及ぼすからという2つの理由があると思う。僕が何かよからぬことを考えると、阿弥陀仏がこれを「見ている」。僕は、この絶対的な他者の「まなざし」によって「対象化」された己の野卑な姿を承認する。ゆえに「恥ずかしい」。実体験としても、信仰を深めると、己の罪悪性に気が付くようになった。「汝自身を知れ」というのが哲学の格率だが、「汝自身」というのは、絶対者という媒介があってこそ、「対象化」され、よく見えるのだと思う。

 おてんとうさまが見ているから、悪い事はしちゃだめ。そういうことだ。

環境と遺伝子が悪い

「遺伝子と環境が悪い」というアカウント名のツイッターアカウントがあった。そうだね…、となった。
 学習院大学の謝辞で、「皆さんありがとうございましたはもう古い、私は自分で頑張った、自分ありがとう」という内容を言ってる女の子がいた。そうだね…、となった。

 ロシュフコーかニーチェが忘れたが、「自由意志」というのは、その概念を用いる人の立場によって、存在するか存在しないかが決まる、ということを言っていた。例えば現状がめちゃくちゃ不幸で、この惨状を誰かのせいにしたい人は「遺伝子と環境が悪い」というアカウントを作るし、自分がめちゃくちゃ成功している人は全部自分の努力だと思いたいので「自分ありがとう」という。自己責任論がいま凄い叩かれてるのは、若者がみな不幸の意識を持っているからだと思う。将来どうなるかは分からないが、現状、実際哲学的に「自由意志」があるかどうかは分かっていない状況の中で、自分の不幸を他者のせいにしたい人は遺伝子と環境論に走るし、自分が成功してると思ってる人は努力論に走るのは分かる。

 幸福/不幸 決定論/自由論 で4つの組を作る。

 @幸福:決定論 A不幸:決定論 B幸福:自由論 C不幸:自由論

 Aが「遺伝子と環境が悪い」アカウントを作る人で、Bが「自分ありがとう」という人だ。前者は卑屈、怨嗟という悪徳、後者は傲慢という悪徳に結び付けられる。僕はどちらもあまりよくないと思う。Cの場合はどうか?この場合終わりのない自責に苛まれる。「この不幸は自分のせい」と背負える人は格好いいし、そういう人はBに移行するだろうけれど(貧乏一家から社長になった人など)、そういう人は例外だし、実際は全部自分が悪いと思い詰めてうつ病になるのが落ちだ。
 僕は@が一番いいと思う。遺伝子と環境を、「他力」と言ってもいいだろう。他力のおかげでここまでこれた。「自分ありがとう」ではなくて、「周りありがとう」。

 最終的には、幸福:決定論が、一番健全な姿であると思う。「他力」のおかげで、私はこんなにも幸せである。ありがとう他力。

 不幸な人はどうすればいいのか?決定論に走ると、社会への憎悪、怨嗟が募った化け物になる。自由論へ走ると、自分を食いつぶすモンスターになる。僕は、「無能」には「メソッド」が必要だとたびたび言っているが、やはり、憎悪や自責と言った負のエネルギーは、メソッドで消化するしかない気がする。その方法はと言えば、瞑想や、認知療法といった、科学的に認知の歪みを治す方法になると思う。
 しかし、もう一つとっておきの方法がある。この「他力ありがとう」を、裏技で出現させるのが「信仰」である。全部神様の恵みもの、絶対他力。どんな惨めな状況であっても、「こんな私に勿体ないなあ」と言わせるバグ技が、宗教というアヘンである。

 天地も施し、空気も施し、水も施し、植物も施し、動物も施し、人も施す。施し合い。われわれはこの布施し合う中にのみ、生きておる。ありがたいと思うても思わいでも、そうなのである。————————沢木興道

ニヒリズムから超越へ

 虚無主義と、超越思想は、紙一重である。無神論と有神論は、コインの裏表でしかない。

 ニヒリズムから、超越物へ進むための、スプリングボードはあるか。僕はそれは、「罪」だと思う。
 人間には、「原罪」がある。ニヒリズムは、特にニーチェ的なニヒリズムはこの「罪」こそ無意味なものだと忌み嫌うだろうが、ニヒリストであっても、事実、宗教的な契機として、「罪悪感」を持つことは可能であると思う。僕はニヒリストであったけれど、自分に「罪」があることは、当り前だと思っていた。キリスト教の「原罪思想」などを聞いても、何当り前のことを言ってるんだ?としか思えなかった。みんな根源的な罪悪感の中を生きているものだと思っていた。
 僕が思うに、人間とは根源的に罪深い存在である。人間は、他者の命を奪わずには生きられない生き物である。人間が、狩猟民族だったときは、「殺し」が目の前で行われていたので、「罪」の意識が人間へ生まれ、動物たちへ「感謝」や「懺悔」をする祭りが、定期的に行われていた。今もやっているのかは知らないが、アイヌの「熊祭り」などが有名である。人間は「殺し」をせずには生きられない。
 人間の根源的な罪悪は、「殺し」と「嘘」である。人間は、「根源的」に嘘をつく。「私はなんて罪深い人間なんだ」と自分を「反省する」自分は、反省されていない。自分を「罪深い」と「定義する自分」は、安全地帯でぬくぬくと生きている。これが原罪である。

 浄土真宗では、伝統的に「無常観」と「罪悪観」を深めよ、という教え方がされることがある。いつ死ぬか分からないということと、自分の罪悪を深める。「救われがたい自分」という概念は「救う存在」を前提にしている。救われないということは、救われるということだ。

 連続とは、A=B B=C A≒C のことだが、Aにニヒリズム、Bに罪、Cに神 を代入することで、ニヒリズムから神への道が開けるかもしれない。
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