売春
生きることを受け入れたからには、売春を受け入れなければならない。私に言わせれば、自殺者以外はみな売春婦ですよ。売春にも程度はあるでしょうけど、あらゆる行為が客引きのようなものであることは明白です。———シオラン
あらゆる創造の衝動には、いささか売春めいたところがある。ちょっとした才能のあるものはだれもそうだが、神にしてもそうだ。純粋なままでいたいと思うなら、自分をさらけだすべきではあるまい。———シオラン
シオラン流のペシミズムはあまり好きではないんだけれど、血迷ってシオランbotをフォローしたとき、この文言が流れてきて、妙に得心がいった。生きる事を受け入れたからには、売春を受け入れなければならない。売春は、生の根本要件だと思う。売春の特徴をあげよう。
@媚びる
A痴態を晒す
B対価を貰う
シオランが言っているように、売春にも程度があるんだろう。売春ゲージ、売春スペクトラムというものがある。
僕が売春ゲージが高いと思うのは、文筆家、アーティスト、画家、大臣、などだけれど、生きている限り、この「売春」からは逃れられないんだろう。「生きる」こととは、本来恥ずかしいことなんだろう。Twitterで流れてきたネタツイートにも「売春」を感じるし、オモシロ漫画にも売春を感じるし、生は全部、「恥ずかしい」。
売春と、自殺の間にスペクトラムがある。売春———自殺間に無限のグラデーションがあり、人はその中のどこかに位置付けられながら生きる。僕は、文学者などがよく自殺するのは、この売春に耐えられなくなったからであると思う。生を凝視し続けると、根底の売春が炙り出され、その売春を物語化するのが文学といえるが、その文学を物語るのもまた売春なので、最後には自殺するしかなくなる。もちろんこのブログを書くのも売春であるし、これをツイッターに貼りつけるのも売春である。みんなが売春婦を軽蔑してるのは、ただ、自らの売春性を隠すために、スケープゴートにしているだけなのかもしれない。
生の売春性。これで自殺をした東大生を知っているけれど、僕はそうはならないように、生きる方法を探した。その結果が、坐禅と念仏だった。自殺に限りなく近い、「純粋」な生がある。限りなく自殺に近い人生。限りなく自殺に近く、口だけ開けて雨と埃だけ食って辛うじて生きる人生。ただ座る。ただ念仏。自殺に近い生き方。自殺そのもののような生き方。僕は本当に惨めだ。
罪と罰に出てくるソーニャは、売春婦だが、光を見失わずに、純粋に生きていた。それは、キリスト教への信仰故だった。生は売春である故に、必ず「慰め」が必要になる。それを宗教心というのだろう。
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