思想 救済
全ての思想は、「救済」に眼目があると思う。神的なもの、と言っていいかもしれない。一人ずつ点検していこう。
ソクラテスは、「智慧」や「徳」を神の位置に置いた。それらを手に入れられれば、幸福な人生を送ることができ、来世があれば、いい場所に行ける。
プラトンは、「イデア」を神の位置に置いた。特に、善のイデアを体得することが、人間の絶対目標である。
アリストテレスは、「観想」を神の位置に置いた。哲学的思惟をする観想こそ、幸福な生活にかかせないものである。
エピクロスやストア哲学者は、方法こそ違うものの「平静(アタラクシア)」を神の位置に置いた。
プロティノスは、「一者」を神の位置に置いた
デカルト〜キルケゴール間の哲学者は、キリスト教的な神を救済原理とした。
ニーチェは、「超人」を、神の位置に置いた。
ウィトゲンシュタインは、「語り得ぬもの」を神の位置に置いた。
ヴェーダ哲学は、「梵我一如」を神の位置に置いた
仏教は「解脱」を神の位置に置いた
etc...
世界には膨大な思想があるけれど、僕はそれらの全てが「救済」を志向しているように思う。救済という言葉が強いのならば、「絶対的な幸福」と言ってもいい。パスカルが言ったように、首を吊ろうとしている人間さえも、幸福を求めている。アリストテレスが言ったように、「目的の目的」は「幸福」である。「思想活動」だけが、その例に漏れるということがあるだろうか?僕はないと思う。全ての行為は幸福=救いを求めて行われるものであるし、思想活動もご多分に漏れない。
知的作業に汲々としているように見える分析哲学や、純粋科学でさえも、アリストテレス的な観想を、自己の救済原理としているのだと思う。僕は、「知的好奇心」という言葉を胡散臭い言葉だと感じる。何かしらの「飢餓感」があるのだと思う。
村上春樹が、「文学は、空腹には勝てない。空腹を紛らわす娯楽が文学だ」みたいなことを言ってたが、思想というのもそんなもんなのだと思う。救いというのは、アンパンマンだと言っていいかもしれない。お腹が空いている人へ、食べ物をあげる。肉体的、精神的な飢餓感が大元にあり、それを解消するために動く。精神的な飢餓を満たすのが、思想である。それ以外に思想の意義はないと思う。心のお腹が空いたら、思想を食べる。
けれども、質のいい食べ物を食べたほうがいい。本当の「救済原理」とは何なのか?知的パズルに救済を感じる人もいるだろうけれど、僕は、南無阿弥陀仏を食べられれば、それでいい。
ソクラテスは、「智慧」や「徳」を神の位置に置いた。それらを手に入れられれば、幸福な人生を送ることができ、来世があれば、いい場所に行ける。
プラトンは、「イデア」を神の位置に置いた。特に、善のイデアを体得することが、人間の絶対目標である。
アリストテレスは、「観想」を神の位置に置いた。哲学的思惟をする観想こそ、幸福な生活にかかせないものである。
エピクロスやストア哲学者は、方法こそ違うものの「平静(アタラクシア)」を神の位置に置いた。
プロティノスは、「一者」を神の位置に置いた
デカルト〜キルケゴール間の哲学者は、キリスト教的な神を救済原理とした。
ニーチェは、「超人」を、神の位置に置いた。
ウィトゲンシュタインは、「語り得ぬもの」を神の位置に置いた。
ヴェーダ哲学は、「梵我一如」を神の位置に置いた
仏教は「解脱」を神の位置に置いた
etc...
世界には膨大な思想があるけれど、僕はそれらの全てが「救済」を志向しているように思う。救済という言葉が強いのならば、「絶対的な幸福」と言ってもいい。パスカルが言ったように、首を吊ろうとしている人間さえも、幸福を求めている。アリストテレスが言ったように、「目的の目的」は「幸福」である。「思想活動」だけが、その例に漏れるということがあるだろうか?僕はないと思う。全ての行為は幸福=救いを求めて行われるものであるし、思想活動もご多分に漏れない。
知的作業に汲々としているように見える分析哲学や、純粋科学でさえも、アリストテレス的な観想を、自己の救済原理としているのだと思う。僕は、「知的好奇心」という言葉を胡散臭い言葉だと感じる。何かしらの「飢餓感」があるのだと思う。
きゅう さい きう− [0]【救済】
( 名 ) スル
@困っている人を助けること。 「難民を−する」
A 〘宗〙 単なる現世利益(げんせりやく)をもたらす段階にとどまらず、人を不幸な状態から解放し、幸福さらには生きる意味を与えること。救い。済度(さいど)。
村上春樹が、「文学は、空腹には勝てない。空腹を紛らわす娯楽が文学だ」みたいなことを言ってたが、思想というのもそんなもんなのだと思う。救いというのは、アンパンマンだと言っていいかもしれない。お腹が空いている人へ、食べ物をあげる。肉体的、精神的な飢餓感が大元にあり、それを解消するために動く。精神的な飢餓を満たすのが、思想である。それ以外に思想の意義はないと思う。心のお腹が空いたら、思想を食べる。
けれども、質のいい食べ物を食べたほうがいい。本当の「救済原理」とは何なのか?知的パズルに救済を感じる人もいるだろうけれど、僕は、南無阿弥陀仏を食べられれば、それでいい。
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13〜14)
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