ニヒリズム
今朝、眼を覚ますなり第一に考えたこと。すなわち、人間がかつて得たもっとも深い直観は、すべては気晴らしという直観であるということ。あらゆる約束、あらゆる幻想にまさるもの、それは結局のところ、"それが何になる?"という平凡な、それでいて恐ろしいリフレインだ。この、"それが何になる?"は、この世の真理であり。端的に真理そのものだ。私は五十七年間生きてきたが、白状すれば、これにまさる哲学の啓示にあずかったことはない。————シオラン
人から「思考の深化ができてるから賢い」と言われたんだけど、「虚無」というものに、深みなどあろうはずがない。「それが何になる?」の一言で全ては言い尽くされ、僕が注釈することは、何もない。
ごはんを食べる。それが何になる?会社へ行く。それが何になる?受験に合格する。それが何になる?高校を中退して7年間引きこもる。それが何になる?セックスをする。それが何になる?生きる。それが何になる?ブログを書く。それが何になる?
シオランと同じようなことを言いながらも、「ペシミズム」に陥らずに、カラっと生きている人の言葉を引こう。
「坐禅して何になるか」 この「何になるか」という問いが第一、中途半端じゃ。テレビが発明されて何になったか?おまえが生まれて何になった? 何になるものは一つもない。————澤木興道
それが何になる?ナンニモナラヌ。シオランと澤木興道は、同じことを主張しながらも、生き方や人生観に雲泥の差がある。「ニヒリズム」は、一種の中立的な状態である。「ナンニモナラヌ」からは、否定も肯定も生まれない。ニヒリズムからは2人の子が生まれる。ペシミズム、オプティミズム。松塚豊茂が、自分はニヒリズムを通り抜けたブディストだと言っていたが、ニヒリズムを通過する道程で、差が生まれる。
シオランと、澤木興道の、決定的な差はなんなのか、僕はまだ分からない。一方は、苦悩を賛美するキリスト教国に生まれ、もう一人は、苦悩から解脱しようという仏教国に生まれたのが、差の原因かもしれない。シオランも、解脱に憧れは在ったが、結局ぐずぐず世の中を嘆いているだけだった。
OSHOという、20世紀に活躍した宗教家がいるんだけれど、そのOSHOが言うには、「悟り」を開くと、「答え」が分かるのではなく、「問い」が消滅するらしい。それが何になる?が消滅する。それは確かに救いだ。動物は生を生きていて、人間は疑問符を生きているが、この疑問符が完全に消滅すれば、人間も生を生きられるようになる。人間の反省性は修行により滅し、直接性に生きられるようになる。
浄土教徒は、「生まれた。それが何になる?」の答えを多分持っている。それは「阿弥陀仏に出会えた」ことだろう。「それが何になる?」という一見素朴な問いには、「無限の智慧」で答えるしかないのだと思う。
「お前が生まれてなんになった?」
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
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