宗教擁護論 | 人生入門

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
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宗教擁護論

 コロナでパニックになるような人は宗教をしたほうがいいというツイートがバズっていて、それにたくさんのリプライがついていた。引用してみる。
 
信仰は縋るものではなく胸に秘めるものと思ってますけど、縋らないと生きていけない方々も大勢いますからね。
一時身を預ける位なら健全な精神修養になると思いますけどべったり寄りかかると自分の意思で動けなくなる方が出るのが難点。

自分を軸にして生きねば一生強くなれないし、いざという時自分を自分で守れない。宗教自体否定はしませんが…何かに気付けるきっかけにはなると思うから。個人的な意見です

個人的な意見としては反対です。宗教自体を否定しませんが、宗教は思考停止を誘発します。
何か絶対的な正解や救いはないということを認め、個人個人が自分の頭で考えることをしていくしかないと思います。

 ネガティブな意見が散見された。主な論点は「宗教は弱い人がすがるもの」ということと、「思考停止」ということだろう。
 
 宗教は弱いものがすがるもの、という意見について、宗教側は普通「そもそも全ての人間は弱いでしょう」と答える。例えば生老病死。生まれて老いて病気になって死ぬ。この弱さにまみれた人間は、何かに守られないと生きていけないでしょう、と答える。それはそうなんだけれど、哲学から宗教に転向した身としては、「弱い」というよりも、「無知」だから、神仏にまかせざるをえない、ということを言いたい。僕は哲学を独学で5年やっても、何も分からなかった。今も趣味でやっているけれど、それでも何も分からない。なぜ生きているのか?なぜ死ぬのか?なぜおれが病気になったのか?善とは何なのか?何も分からない。「宗教は弱い人がすがるものなんでしょう」というのを僕なりに言い換えると、「宗教は無知な人がすがるものなんでしょう」となる。ところで、人生に無知じゃない人なんて、この世に存在するだろうか?
 「何が君の幸せ、何をして喜ぶ 分からないまま終わる そんなのは嫌だ」

 思考停止という論点について。ある意味では思考停止ともいえるけれど、全くの思考停止には陥らないと思う。少なくとも僕の信じている浄土教は、健全な「思考停止」であると思う。浄土教の教義は実に明解で、「南無阿弥陀仏」についての疑いをなくせば、浄土へ行けるというものである。「南無阿弥陀仏」は「お前を助けるぞ」という如来の勅命であり、確かにこの南無阿弥陀仏に対しての、疑い(思考)は停止する。ただ、それだけだ。非常にミニマムな教義であると思う。キリスト教やイスラム教、他の新興宗教などは、他にも様々な教義に「思考停止」しなければならないのかもしれないが、少なくとも僕の信じているところではそれはない。普通に思考をフル回転させて哲学書を読んでいるし、ブログを書いている。

 「死」という、自分では絶対に「カタがつかない」問題がある限り、人間は何かをたのむ必要性はあると思う。ストア主義的自己鍛錬で、死を受容できるような人ならば、宗教などいらないかもしれないが、僕が身近に見た「死」に対面している人は、ただ狼狽しているだけだった。

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