努力論
オー!ノーッおれの嫌いな言葉は一番が「努力」で二番目が「ガンバル」なんだぜーッ———————ジョセフ・ジョースター
僕は努力が嫌いだ。頑張ったことがない。高校生の頃は、1日に5,6時間勉強して、成績も普通に良かったけれど、それを「努力」だと思ったことがない。高校生が勉強をするのは当たり前だと思っていたし、勉強をするのは楽しかったし、別に人のために何か役に立つことをしていたわけではないから。
「努力」は「尊い」か?昨今の、努力努力うるさい社会のことを「努力教」と呼んでいる人もいるように、それは自明なことではない。努力が尊いと言われている理由は、2つあると思う。1つはそれが「苦行」だからで、もう1つはそれが「利他的」だから。
人間社会は「苦行」をしている人を賞賛するという、謎の本能を持っている。インドの宗教者などが典型で、他にも修道院の中で禁欲しているクリスチャン、滝行などをしている修行者などを褒めたたえる文化がある。ただし、これは「能動的」に自ら苦しんでいる人にしか当てはまらず、「受動的」に苦しんでいる人、病人や老人などには当てはまらない。日本で苦行と言えば、千日回峰行が有名だろう。山を千日のぼっても誰の役にも立たないが、「めちゃくちゃ苦しいから」という理由で「偉い」ということになる。
僕はこの「苦行」は偉くもなんともないと思う。人類社会に普遍的である、この「苦行」をしている人を賞賛したくなる衝動というのは、何かしらの生物学的な根拠があるのだと思う。進化心理学などでは解明されているかもしれない。でもこれは無用の長物だと思う。現に釈迦は、悟りを開くために苦行を捨てた。
利他的だから尊い。僕は「努力」が尊くなるのは、この一点だと思う。この前Twitterで「受験勉強をしている人は何も偉くない。自分が成功者になりたいから頑張ってるだけじゃん」と発言してだいぶひんしゅくを買ったが、人のため、社会のために受験勉強を努力している人は偉いと思う。僕は自分が受験勉強しているときは、そんな意識は微塵もなかった。ネット上でも「肩書が欲しいから」「勝ち組になりたいから」という理由ばかり見るので、「人の役に立つために研究がしたいから」などという菩薩のような人は極めて少数だと思う。
菩薩という言葉を使ったが、「菩薩」というのは大乗仏教で利他行をする人のことを指す言葉である。仏教には、「小乗仏教」と「大乗仏教」があって、大乗仏教は、小乗仏教を「自分自身の悟りしか考えていない利己主義者」だといって痛烈に批判した。仏教では努力のことを「精進」というが、この精進が自分のためだけに使われると、「小乗」になる。つまり、自分しか乗ることのできない悟りのボートに乗る。逆に大乗仏教徒は、大きな船を「精進」して作って、自分よりも他者を優先して、悟りに至らせようとする。「尊い」努力かどうかは、ここが分かれ目だと思う。小乗か、大乗か。
最初に書いたが、僕は努力が嫌いである。苦行もしたくないし、人のために何かできるほどできた人間でもない。そんな僕のために、過去の永劫の間、大乗的精進をしてくれた菩薩がいるとお経に書いてあるので、僕はその人に甘えようと思う。
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