まなざし 恥じらい
純粋な羞恥は、これこれの非難されるべき対象であるというのではなくして、むしろ、一般に、一つの対象であるという感情であり、私が他者にとって、それであるところのこの存在、下落した、依存的な、凝固したこの存在の内に、私の姿を認める時の感情である。—————存在と無
サルトルの、「対他存在」という概念についての部分を最近読んでいる。サルトルの議論は、ヘーゲルの「主人と奴隷論」からの影響を受けているらしく、いくぶん「闘争的」「相剋的」なきらいがある。他者の「まなざし」の圏域に置かれることで、自分の「可能性」「存在」というものが奪われる。これをサルトルは「他有化」という。僕の実生活に当てはめて考えてみる。
僕は引きこもってツイッターしかしていないので、ツイッターで考えることにするが、僕のツイートは常に300以上の「まなざし」に晒されている。「まなざし」は確かにほとんどの場合「眼球」に限られるが、この場合は画面の向こう側(というか画面そのもの)に「まなざし」があるし、「まなざし」は決して眼球に限られるものではない。
僕は面白いと思って、「キュウリのリンゴ。キュウリンゴ。」とツイートしようとする。けれども、やっぱ他人に「つまらないな」と思われるのが嫌で、ツイートをするのを諦める。これが他者による自分の「可能性」の他有化である。いや、やっぱり面白いかもしれない、と思い、自分の可能性を優先し、ツイートしても、全然いいねが来なかったとする。そうすると僕は「羞恥」に襲われて、ツイートを消す。僕の「自由」は、他者の「まなざし」の「自由」に犯されている。僕は、他者の「対象」になってしまい、それゆえ、他者の奴隷になる。
考えてみると、ツイッターほど「まなざし」による他有化が顕著な場所はないかもしれない。他者の「いいねをする、しない自由」のまなざしによって、自己が奴隷化される。自己の可能性が、他者の可能性に所有される。だから、フォロワーが増えたアルファなどは、サブ垢を作りがちだ。
このようにサルトルの議論は、悲観的というか、闘争的というか、「まなざし」にがんじがらめにされて身動きのできない自分、という悲劇的な様相を呈している。
サルトルの「脱自的意識の自由」という文脈からは大きく外れるけれど、僕はサルトルとは逆に、サルトルのこの「対他存在」という概念で、自己認識が深まるということを考えてみたい。合わせて宗教のことも考えてみたい。
人間は、自己自身を見ることができない。鏡が自分を映せないように、眼が自分を見れないように、自分のことを本当の意味で見ることができない。自分を「対象」として見ることができない。自分は絶対的な主観である。この自己が「対象」になるのが「他者」へ現前する場合である。もちろん他者は僕を「対象」として見る。
僕が「対象」になるのは、他者の前だけである。だから僕が自分を「対象」として見るには、「他者」という媒介が必要になる。
ところで、神は絶対的な他者である。サルトルは無神論者なので、「現実性を欠いている」といって切って捨てているが、まあ絶対者がいるとする。絶対者は普遍的な「まなざし」である。常に自己を「見ている」のが、神である。信仰者は常に、「まなざし」を向けられている。自己は常に、対象化される。
僕の信仰している浄土真宗では、「あさまし」とか「はずかし」ということがよく言われる。信心を得ると、自分の罪悪や煩悩が、仏智に照らされて、よりハッキリ見えるようになる、とかも言われる。僕はこれは、絶対者が時間的空間的に偏在しているからという理由と、絶対者は「心の中」にまで「まなざし」を及ぼすからという2つの理由があると思う。僕が何かよからぬことを考えると、阿弥陀仏がこれを「見ている」。僕は、この絶対的な他者の「まなざし」によって「対象化」された己の野卑な姿を承認する。ゆえに「恥ずかしい」。実体験としても、信仰を深めると、己の罪悪性に気が付くようになった。「汝自身を知れ」というのが哲学の格率だが、「汝自身」というのは、絶対者という媒介があってこそ、「対象化」され、よく見えるのだと思う。
おてんとうさまが見ているから、悪い事はしちゃだめ。そういうことだ。
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