ニヒリズムから超越へ
虚無主義と、超越思想は、紙一重である。無神論と有神論は、コインの裏表でしかない。
ニヒリズムから、超越物へ進むための、スプリングボードはあるか。僕はそれは、「罪」だと思う。
人間には、「原罪」がある。ニヒリズムは、特にニーチェ的なニヒリズムはこの「罪」こそ無意味なものだと忌み嫌うだろうが、ニヒリストであっても、事実、宗教的な契機として、「罪悪感」を持つことは可能であると思う。僕はニヒリストであったけれど、自分に「罪」があることは、当り前だと思っていた。キリスト教の「原罪思想」などを聞いても、何当り前のことを言ってるんだ?としか思えなかった。みんな根源的な罪悪感の中を生きているものだと思っていた。
僕が思うに、人間とは根源的に罪深い存在である。人間は、他者の命を奪わずには生きられない生き物である。人間が、狩猟民族だったときは、「殺し」が目の前で行われていたので、「罪」の意識が人間へ生まれ、動物たちへ「感謝」や「懺悔」をする祭りが、定期的に行われていた。今もやっているのかは知らないが、アイヌの「熊祭り」などが有名である。人間は「殺し」をせずには生きられない。
人間の根源的な罪悪は、「殺し」と「嘘」である。人間は、「根源的」に嘘をつく。「私はなんて罪深い人間なんだ」と自分を「反省する」自分は、反省されていない。自分を「罪深い」と「定義する自分」は、安全地帯でぬくぬくと生きている。これが原罪である。
浄土真宗では、伝統的に「無常観」と「罪悪観」を深めよ、という教え方がされることがある。いつ死ぬか分からないということと、自分の罪悪を深める。「救われがたい自分」という概念は「救う存在」を前提にしている。救われないということは、救われるということだ。
連続とは、A=B B=C A≒C のことだが、Aにニヒリズム、Bに罪、Cに神 を代入することで、ニヒリズムから神への道が開けるかもしれない。
ニヒリズムから、超越物へ進むための、スプリングボードはあるか。僕はそれは、「罪」だと思う。
人間には、「原罪」がある。ニヒリズムは、特にニーチェ的なニヒリズムはこの「罪」こそ無意味なものだと忌み嫌うだろうが、ニヒリストであっても、事実、宗教的な契機として、「罪悪感」を持つことは可能であると思う。僕はニヒリストであったけれど、自分に「罪」があることは、当り前だと思っていた。キリスト教の「原罪思想」などを聞いても、何当り前のことを言ってるんだ?としか思えなかった。みんな根源的な罪悪感の中を生きているものだと思っていた。
僕が思うに、人間とは根源的に罪深い存在である。人間は、他者の命を奪わずには生きられない生き物である。人間が、狩猟民族だったときは、「殺し」が目の前で行われていたので、「罪」の意識が人間へ生まれ、動物たちへ「感謝」や「懺悔」をする祭りが、定期的に行われていた。今もやっているのかは知らないが、アイヌの「熊祭り」などが有名である。人間は「殺し」をせずには生きられない。
人間の根源的な罪悪は、「殺し」と「嘘」である。人間は、「根源的」に嘘をつく。「私はなんて罪深い人間なんだ」と自分を「反省する」自分は、反省されていない。自分を「罪深い」と「定義する自分」は、安全地帯でぬくぬくと生きている。これが原罪である。
浄土真宗では、伝統的に「無常観」と「罪悪観」を深めよ、という教え方がされることがある。いつ死ぬか分からないということと、自分の罪悪を深める。「救われがたい自分」という概念は「救う存在」を前提にしている。救われないということは、救われるということだ。
連続とは、A=B B=C A≒C のことだが、Aにニヒリズム、Bに罪、Cに神 を代入することで、ニヒリズムから神への道が開けるかもしれない。
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