生きる意味
この前ブログに「宗教をしても生きる意味は分からない」と書いた。全知全能の神、無限の仏智、というものに与ることはできるが、実体験としては「なぜ世界は存在しているのか」ということは分からない。分かるのは「私はどこから来て、どこへ行くのか」ということだけで、世界が存在している究極的な理由は分からない。
世界が理由なく存在しているとしたら、それはおぞましいことである。全ては偶然になる。世界は、糸が切れたタコのようなものになる。けれども、僕は世界が存在している理由を知らないし、人類は今後も絶対に知ることはない。理性による永遠の「なぜ?」のリフレインがあるだけだ。
信仰するとは「まかせる」ことだと思う。世界は偶然性に支配されているのか、必然的な不動者がいるのか、僕は知らない。けれども絶対者が「大丈夫」だと言っているので、大丈夫なんだろう。僕には生きる意味が分からなくてもいい。浄土へ行くことが「何になる」のかは分からない。でも仏が大丈夫と言ってるので、大丈夫なんだろう。
世界が理由なく存在しているとしたら、それはおぞましいことである。全ては偶然になる。世界は、糸が切れたタコのようなものになる。けれども、僕は世界が存在している理由を知らないし、人類は今後も絶対に知ることはない。理性による永遠の「なぜ?」のリフレインがあるだけだ。
信仰するとは「まかせる」ことだと思う。世界は偶然性に支配されているのか、必然的な不動者がいるのか、僕は知らない。けれども絶対者が「大丈夫」だと言っているので、大丈夫なんだろう。僕には生きる意味が分からなくてもいい。浄土へ行くことが「何になる」のかは分からない。でも仏が大丈夫と言ってるので、大丈夫なんだろう。