始めの第一歩
今朝、眼を覚ますなり第一に考えたこと。すなわち、人間がかつて得たもっとも深い直観は、すべては気晴らしという直観であるということ。あらゆる約束、あらゆる幻想にまさるもの、それは結局のところ、"それが何になる?"という平凡な、それでいて恐ろしいリフレインだ。この、"それが何になる?"は、この世の真理であり。端的に真理そのものだ。私は五十七年間生きてきたが、白状すれば、これにまさる哲学の啓示にあずかったことはない。————シオラン
この文章に書き足す言葉が、本当に何もない。このアフォリズムに一切は言い尽くされていて、僕が何かをつけ足しても「それが何になる?」と言われるだけだろう。
シオラン、中島義道、南直哉、藤村操など、この認識から、一歩も出られない人を知っている。シオランは、この認識を持ちながら、世界を呪う断章を書き続けた。それが何になる?中島義道は、「未来は存在しない」ということを哲学的に証明しようとしているらしいけれど、それが何になる?南直哉は、悟りを諦めて、ただ坐禅を毎日しているらしいけれど、それが何になる?藤村操は、華厳の滝で投身自殺をした。それがなんになる?
この認識から、一歩進む。それは、世界を呪うことでもないし、哲学的証明をすることでもないし、坐禅をすることでも自殺することでもない。それが何になる?という素朴な問いに答えるには、信仰しかないだろう。信仰は、全知者の全知に与る行為である。「それが何になる?」には無限の智慧で答えるしかない。「人生の意義は不可解であると云ふ所に到達して茲に如來を信ずると云ふことを惹起したのであります。」「次に如來は、無限の智慧であるが故に、常に私を照護して、邪智邪見の迷妄を脱せしめ給ふ。」僕はこの「それが何になる?」に回答できた人は、信仰者以外に知らない。それが何になる?から一歩踏み出せば、広い世界が広がっている。信仰は、人生における、トドメの一点であると感じる。それが何になる?の蜘蛛の巣から這い出ると、暖かい世界が広がっている。そこが世界の最果てであると思う。
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