阿弥陀仏
とあるブログを見ていたら、「この世は全て素粒子であり、宗教や国家というものは全てフィクション、概念、幼児のいう妖精さんと同じ」と書いてあった。大半の日本人は、そう思ってるだろう。
僕は前に、宗教とは「信じる」ことではなく、「知る」ことだと書いたが、それを訂正して宗教とは「いる」ことである、と言いたい。阿弥陀仏の存在を知るのではなくて、阿弥陀仏は、端的に「いる」。
自分の信心が、自力なのか他力なのか、救われているのか救われてないのか、まだ分からないけれど、僕は阿弥陀仏はいると思う。「と思う」というか、「いる」。どこにいるの?と聞かれたら、どこにでもいる、と答える。本当にどこにでもいるから。
「阿弥陀仏という概念を信じる」と聞いたら、それは子供がサンタクロースの存在を信じていると思われるかもしれないが、阿弥陀仏は、信じるのではなくて、「いる」。そこにいる。フィクションでも概念でもなんでもない。そこに「いる」のだから。
科学主義者は、それは脳みそのニューロンの結果、そういう意識状態になっているというだろう。実際にそういう本も多数出ている。僕は幻覚のようなものを見ているのかもしれない。そういうことを踏まえた上でも、阿弥陀仏は「いる」。
阿弥陀仏は、無限の光という意味もある。本当にその通りだなあ、と思う。常に照らされている。信じるとかではない。常に照らされている。「信じる」のではなくて、「阿弥陀仏」という仏が「いる」ので、その仏に「会った」だけだと思う。
こういう和讃を読んでも、前はなんとも思わなかったが、今は、その通りだなあ、と思う。安心しで死んで行ける場所がある。概念やフィクションを「前において」「信じる」のではない。機法一体。弥陀佛の心と、感応道交する。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
僕は前に、宗教とは「信じる」ことではなく、「知る」ことだと書いたが、それを訂正して宗教とは「いる」ことである、と言いたい。阿弥陀仏の存在を知るのではなくて、阿弥陀仏は、端的に「いる」。
自分の信心が、自力なのか他力なのか、救われているのか救われてないのか、まだ分からないけれど、僕は阿弥陀仏はいると思う。「と思う」というか、「いる」。どこにいるの?と聞かれたら、どこにでもいる、と答える。本当にどこにでもいるから。
「阿弥陀仏という概念を信じる」と聞いたら、それは子供がサンタクロースの存在を信じていると思われるかもしれないが、阿弥陀仏は、信じるのではなくて、「いる」。そこにいる。フィクションでも概念でもなんでもない。そこに「いる」のだから。
科学主義者は、それは脳みそのニューロンの結果、そういう意識状態になっているというだろう。実際にそういう本も多数出ている。僕は幻覚のようなものを見ているのかもしれない。そういうことを踏まえた上でも、阿弥陀仏は「いる」。
阿弥陀仏は、無限の光という意味もある。本当にその通りだなあ、と思う。常に照らされている。信じるとかではない。常に照らされている。「信じる」のではなくて、「阿弥陀仏」という仏が「いる」ので、その仏に「会った」だけだと思う。
「煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」
【私たちは煩悩に眼(まなこ)をおおわれて、摂取して下さる阿弥陀如来の光明を見ることができないが、大悲の阿弥陀如来は少しもあきることなく、常に私たちを照らし護って下さっている】
こういう和讃を読んでも、前はなんとも思わなかったが、今は、その通りだなあ、と思う。安心しで死んで行ける場所がある。概念やフィクションを「前において」「信じる」のではない。機法一体。弥陀佛の心と、感応道交する。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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