シモーヌ・ヴェイユ 純粋さ
善行(または創作活動)のあとの自己満足は、高次のエネルギーの堕落をまねく。ゆえに「右手は知ってはならぬ・・・・」いかなる形態であるにせよ、報いはエネルギーの堕落をまねく。—————重力と恩寵
おのれの行動の原動力を自身の外側にうつすこと————重力と恩寵
重力と恩寵を読んでいる。違う訳で2冊持っているぐらい好きな本なのだけれど、読んでいると胸がつまってきて、毎回頓挫してしまっていた。白すぎる。太陽と死は直接見ることができない、というロシュフコーの言葉があるが、純粋すぎる「善」も直接見ることができないのかもしれない。冬に、窓を開けると、真っ白な白銀が広がっている。その白雪に、太陽光が反射して、眼が痛くなる。そういう感じ。
今は少しずつ読み進めているんだけれど、上に引用した文章が特に印象的だった。僕は善など全て偽善だと思っているけれど、ヴェイユが影響を受けた、バガヴァッド・ギーター的な倫理は、純粋な善かもしれない。善行をしても、それを「神」に捧げ、その結果に執着しない。結果に頓着しない。ただその際のエネルギーが、下劣なものだと、それは純粋な善だとは言えない。
エネルギーは、他者から得なければならない。高次の他者、すなわち「神」から。神からエネルギーを摂取して、結果に頓着しない善行、創作活動をする。己の、煩悩だらけのエネルギーから、行為をしてはならない。「命令」に従う。従順する。一番純粋なのは、奴隷だ。
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