人生入門

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生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です 

短歌も書いてます
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アフォリズム体解
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信心入門
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詩入門
https://utagoe.hateblo.jp

小説 結構頻繁に更新します
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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

既知からの自由

 ジッド・クリシュナムルティという宗教者、哲学者の本に、「既知からの自由」という本がある。過去から解放されようという呼びかけだ。
 最近読んでるサルトルなんかだと、人間は絶対的に自由で、非反省的な対自が、過去を無化していって、人間は常に自由に呪われている、みたいなことを言っているけれど、現在の科学の状況だと、とうてい受け入れがたいと思う。全て遺伝子と環境が悪い。19世紀のマーク・トウェインという人が「人間とは何か」という対話篇を書いているんだけれど、自由意志はあるという青年を、環境決定論のおじいさんが完全に論破するという筋書きになっている。面白いので読んでみてほしい。
 
 で、遺伝子と環境=過去から自由になる方法はあるのか?クリシュナムルティという人は、それは「瞑想」によって達せられるという。人間は環境の産物であるということは、クリシュナムルティも完全に同意する。環境によって、思考が規定されて、感情が規定されて、不幸で、惨めな人間が量産される。ロボットのできあがり。どうすればいいか?それに「気づく」「観察する」のが唯一の道だという。自分の思考や感情といった、過去の産物を観察する。この「観察」という要素は、環境から来たのか、空から降ってきたのか知らないけれど、同じようなことを言っている禅僧のティクナットハンは、キリスト教でいう聖霊だと言っているので、そんな感じのものなんだろう。「過去からの産物を観察する」ことによって、理解して、それにコントロールされなくなる。
 クリシュナムルティは毎日決まった時間で瞑想することを推奨してないけど(それも機械的になる可能性があるから)僕は毎日決まった時間に瞑想するほうが、効果があった。
 僕の実体験として、僕は何度も再発する肺の病気にかかっていて、それがもう10回以上再発して、再発したら即手術なので、引きこもってからも、1日中肺のことばかり考えていて、頭がおかしくなりそうだった。これは遺伝子と環境=身体=過去=記憶から来ている思考と感情だろう。瞑想を始めて、数週間すると、思考が気にならなくなった。(再発したらどうしよう)という思考が湧いても、「ああ、いつものやつだな」と流せるようになった。僕はこれは、「過去からの解放」であると思う。
 

自殺

 自殺のオノマトペって「ふっ」だと思う。ふっと死ぬんだと思う。
 
 自分の自殺する場面を最近よく想像する。自分が死ぬ一瞬の「ふっ」と、この今の一瞬は、完全に等価なんだろうな。時間は差別をしない。100メートル走のコンマ何秒も、今僕のクソみたいに無駄にしてる時間も、全部同じだ。今も「ふっ」がたくさん行われているんだろうな。僕がブログを書いている時間に。
 僕もその列に参列するのかな。涙が出てきたから、寝る。

生まれて来たくなかった

 なんの生産性もない人は、現代社会では「いてはならない存在」として扱われる。

 人間と関わるのが苦手な自閉症スペクトラム障害という病気に生まれついた。学校はずっと苦痛だった。限界がきて、16歳で学校をやめた。

 16歳から今まで、何もしていない。1円も稼いでない。それでも肯定してくれる母親がいたけれど、母親は去年死んだ。

 障害のことを理解してくれずに、生活習慣に一生口を出し続けてくる父親と2人暮らしをするのがきつい。毎月くる障碍者支援の人は心が減るだけなので断った。父親も悪意があるわけでなく、善意で口を出してくるので、それを撥ねつけるのが、親不孝で、つらい。

 障害のせいで、人並みの生活ができない。毎日風呂にも入れないし髭もそれないし薬もどっかいくし、探し物もできないし、片づけもできない。人と関わるのがとにかく怖い。障害が悪いのか、甘えてるだけなのか、自分でも分からないから余計つらい。

 産まれて来たくなかった。生きてるだけで、父親と叔母さんに迷惑をかけてる。自殺をしてしまおうかとも思うけれど、怖いし、人生で、絶対にやらなきゃいけないこととして「信仰」というものがあるので、それが徹底していない今、死ねない。

 みんなみたいに、普通の人みたいに生きたかった。一生引きこもって、父親がいなくなったら、自殺して、世界にとっていてもいなくても同じ存在として、死ぬんだろうなと思う。

サルトルの恋愛論

 愛されるというのは、「主観ー他者」からの他有化である。羞恥と愛の違いは、羞恥が「対象ー自己」を超越、道具化するのに対して、愛は「対象ー自己」を超越しない、言い換えれば究極の目的、世界の象徴にする。「対象ー自己」は、道具化されることがなく、その「対象ー自己」の周りに、さまざまな道具が配置される。愛は、「対象ー自己」による、「主観ー他者」の、自由の「我有化」である。自分の「対象性ー事実性」は、「他者ー主観」が「自由」によって、絶えず再創造し続けるという意味で、「救われる」。僕は僕になれる。
 ただ、恋愛というのは一方的なわけがない。「愛する」というのは「愛されたい」という意味だ。「他者−主観」の、自由を「我有化」したいと、双方が思っている。言うなれば、双方が「対象」になりたいと願っており、他者を「主観」ならしめたいと思っている。彼が私を愛することは、私を落胆させる。なぜなら、彼が私を愛するのは、「私から愛されたいという企て」であり、私を「自己ー主観」ならしめる営みであるから。お互いが相手を「主観」にして、自分を「対象」としようとするので、お互いが挫折する。これが恋愛の悲劇である。

 AさんとBさんがいる。AさんはBさんの、「主観の自由」によって、「Aさんそのものである対象」になろうとする。それが愛である。それが救いである。ただBさんも、Aさんの「主観の自由」によって、「Bさんそのものである対象」になろうとするので、お互いが「対象」になれずに、「主観」にとどまる。

僕は早く死にたいのだと思う

 小2の頃に、死後のことを想像して、宇宙がひっくり返る体験をした。その頃は「虚無」という難しい言葉は知らなかったけれど、「真っ暗で怖いところ」ということは分かった。そのころから僕は世界に違和感を抱いていて、学校へ行くのが苦痛で仕方がなかった。
 「どうせ死ぬのになぜ生きなきゃいけないんだろう」ということをずっと考えてきた。引きこもってからは特に考えてきた。どうせ死ぬのに、今生きていなければいけない理由は、無いのだと思う。僕は自分が「死」と戦ってきたと思っていたが、実は僕は、死にたいだけなのだと思う。
 友達が自殺したことが3回もあるけれど、どれも言い難い感情があった。か細く「羨ましい」という感情があったのは、最近気づいた。意識という病気から逃れるのは、どんなに幸福なんだろう。
 1年前ごろか、僕は「いつ死んでもよくなりたい」と言っていた。良寛さんの「死ぬる時節には死ぬがよく候」という言葉に、強烈に憧れを抱いていた。死ねないのは、結局恐怖心があるからで、悟りを開くと、多分いつでも死ねるようになるんだろう。けれど僕は体が悪くて修行ができないので、念仏によって「いつ死んでもいい」を目指すようになった。早く死にたかったのだと思う。
 阿弥陀仏は「唯の唯」で助けてくれるらしい。小2の頃は「真っ暗で怖いところ」だった死後のイメージは、今では「水色がかった光で満たされている、幸せなところ」に変わった。でも死ぬのは怖い。

 昔のブログによく書いていたが、僕は「失望フェチ」である。全部に失望してきた。快楽主義の生き方にも失望したし、地上にあるもの、全てに失望をした、というのは言い過ぎだけれど、僕はとにかく失望がしたかった。この世に未練を残すのが嫌だったんだろう。
 痛みもなく、苦しみもなく、砂のようにさらさらと崩れ落ちたい。終わりたい。

読書

 僕が本格的に読書を始めたのは、16歳ごろだと思う。それまでもちょくちょく読んでいたけれど、毎日読むようになったのは、16歳で引きこもってからだ。
 16歳の頃に読んで衝撃を受けたのは、「利己的な遺伝子」と「シーシュポスの神話」で、それらの本の影響は未だに色濃く残っている。その2つと戦うために生きている気がする。
 それから、もう何冊読んだか分からない。2000〜3000冊ぐらいだと思う。16歳から20歳までは、ずっと哲学書を読んでいて、20歳から22歳までは、仏教書をずっと読み、今は哲学書と仏教書を両方読んでいる。
 16歳の頃はとにかく「頭がよくなりたい」と思っていて、分かりもしないのに、ラカンだのデリダだのを読んでいた。今読んでもよく分からない。
 
 何で本を読んでるんだろう。「楽しい」というのは間違いなくあるけれど、ずっと憑りつかれたように読んでいる。「真理」などは本の中にはないと分かってからも、読んでいる。最近は、もう読みたい本がなくなってきた。読めてない哲学者の本と、宗教書は読みたいけれど、興味のある本は、あらかた読んでしまった気がする。「読みたい本がない」というのが最近の大きい悩みである。
 だから、文学書とか歴史書を読もうと思っている。読んでも何にもならないのは分かっているんだけれど。

神は概念か?

 「信じる」というと、自分と「もう一人の人」がいて、その人を対象にして、信じる、という図が浮かぶと思う。実際に世間で人が「信じる」というときは、何かの「対象」を信じている。明日の天気を対象にして、明日は晴れだと信じている。友達を対象にして、あの人は裏切らないと信じている。
 
 神、といえば「白髭を生やした老人」阿弥陀仏と言えば「仏像に刻まれているような凄そうな人」という「表象」が思い浮かぶが、その「表象」が「存在する」と「信じる」わけではない。私→仏という方向があるわけではない。真宗では仏→私という方向があるというが、それも仏像になっているような仏が私に願いをかけているということではないだろう。

 「機法一体」という言葉がある。機というのは私のことで、法というのは仏のことである。仏凡一体という言葉もある。私と仏は、「一体」であるということだ。

 お坊さんが、京都から新潟まで歩いて帰っているときに、あるお堂に入ると、仏像があったらしい。その仏像をよく見てみると、お腹に「餓鬼」がたくさん描かれてあったらしい。機法一体とは、こういうことだろう。仏の胸に、腹に、私たちが含まれている。妊婦の中に赤ちゃんがいるように、仏の中に、私たちが生きている。それに「気づく」ことが、「信心」だ。
 
 「信じる」とは、何か仏像のような偉い「表象」をうんうんと信じるわけではない。私と仏になんのわだかまりもなくなって、二人の心が一体になったところ。ここに安心がある。

哲学

 哲学に何も期待してはいけない。哲学というのは「お喋り」に過ぎない。僕はそうとしか思えない。超越論的観念論とか、カテゴリーとか、実体とか、イデアとか、存在論的差異とか、対自的存在とか、弁証法とか、差延とか、器官なき身体とか、本当に「お喋り」に過ぎなくて、笑ってしまう。それがもし「お喋り」に過ぎないということを拒否するのなら、哲学は「信仰」になってしまうだろう。哲学は批判の繰り返しによって、膨大な「お喋り」になっているのだから、「信仰」になることはありえないだろう。そして、「お喋り」で、自分や他人の自殺を止めることはできない。「自殺」を阻止できる言葉だけが、価値のある言葉だと思う。
「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。そんなものは遊戯であり、先ずこの根本問題に答えなければならない。」というカミュの提言に、100%同意する。けれど、カミュの回答は同意しない。世界は意味の分からない、不条理なものである。だけど生きるべきだ。これには納得できない。意味が分からなかったら、自殺してもいいだろう。

 「お喋り」では自殺を止めることができない。自殺を止めるのは、愛か信仰だろう。僕は、根本的に「言葉」というものに不信感がある。僕がよく言うことだが、言葉は嘘をつく道具である。くだらない、くだらない。憎しみまで覚えてしまう。哲学が憎い。

虚栄心

 最近、虚栄心とは何なのか考えている。虚栄心の根源、元の元は、「俺が誰なのか分からない」ということかもしれない。
 自分が誰なのか、見当もつかない。僕は自分の名前があるけれど、僕はその名前の人物だと思ったことがないし、自分の顔を見ても自分だと思えない。なぜかいきなりこの世界に生まれてきて、なぜか勝手に苦しんで、死んで行く。俺は誰なんだ?
  
 サルトルは、人間は本質的に「対他存在」だと言った。人間は、他者のまなざしに曝されながら生きている。自分ひとりでは、自分の存在根拠がないから、他者に「承認」されることで、「自己」という対象を承認できる。他者の承認がなければ、自分は何者なのか分からない。現に僕は、自分が誰なのかマジで分かっていない。家族に属しているという気分もなければ、学校や会社に属しているという気持ちもない。僕には「他者」が欠けているので、僕は僕が誰なのか分からない。想像だけれど、会社で働いていれば、「社員」、小説家なら「小説家」、王様なら「王様」という自己の存在根拠が、他人によって承認されるのだと思う。
 ヘーゲルは、王様は臣下によって、王様になると言った。臣下がいなければ、王様はいない。

 自撮りをツイッターにあげて、虚栄心を満たすのも、「自分が誰なのか分からないから」だ。才能がないのに小説を書くのも「自分が誰なのか分からないから」だ。哲学書を読んでるアピールをするのも「自分が誰なのか分からないから」だ。自分が誰なのか分からない。ツイッターというのは、自分が誰か分からない人が、自分の存在根拠を他者を媒介にして、確認するツールである。

 他者というのは残酷なもので、自分の思い通りにはならない。本当の自分とは何なのか?初期仏教では、無我だという。アドヴァイタ哲学では、それは真我だという。禅仏教では、悟り=見性をすれば、本当の自分が見えるという。浄土真宗では、南無阿弥陀仏が、自分の本当の名前だという。
 他者に自己の根拠を置くのではなく、こういった根源的な解決をしないと、虚栄という病気にかかったまま死んでしまうと思う。

低俗 高級

 僕は凡夫である。なんの才能もないし、高級な趣味もないし、心の中も腐っている。本当に「普通」の人であると思う。高級か低俗かで言ったら、低俗な人間である。小学生レベルの下ネタが大好きだし、好きなお笑い芸人はハリウッドザコシショウだ。
 だから、「高級」な人の気持ちが、全然分からない。インターネットには、「高級」な人がよくいる。「言葉に呪われている詩人」や、「詩がないと生きていけない詩人」、「心の裡を静めるために、三島由紀夫を読む歌人」、「後期ハイデガーの感想を書く人」など、「高級」な人がうじゃうじゃいる。僕はこれらの人が全く理解できないし、端的に「嘘つき」「見栄っ張り」だと思ってしまう。
 現代日本では、詩や文学、哲学というのは「高級」なものだと思われているが、数十年前〜100年前などは、全然違ったらしい。吉本隆明が言うには、詩人など落ちぶれた社会不適合者がやるものだと思われていたし、岩波新書のエピクテトスを書いてる著者は、父親に哲学をしたいと言ったら「坊さんになるんじゃないんだから」と言われて笑われたらしい。「高級」というのは、社会的な産物だろう。その「高級」な趣味を身に着けて、インターネットで見せびらかすのは、死ぬほど「下品」だと思うんだけれど、どうだろうか。

 ピエール・ブルドゥーが言うには、社会の階級によって、様々な文化資本やハビトゥス(慣習)があるらしい。だから、上級国民の皆さんは、「言葉に呪われている詩人」であったり、「後期ハイデガーの考察をする人」であるのが当たり前であるのかもしれない。けれど低俗でどうしようもない僕は、それは嘘なんじゃないかなあと思ってしまう。「もう、そういうのいいから…」と思ってしまう。

 現代日本で高級だとされている趣味をあえて選ぶのは、死ぬほど下品だと思う。詩がないと生きていけない人間なんて、存在しないだろう。大衆が近代的な詩を嗜むようになって、まだ100年もたってないだろう。早く自己欺瞞に気づいてほしい。僕は「高級」な人間など、いないと思う。僕は、飾っている人間が一番嫌いだ。
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