既知からの自由
ジッド・クリシュナムルティという宗教者、哲学者の本に、「既知からの自由」という本がある。過去から解放されようという呼びかけだ。
最近読んでるサルトルなんかだと、人間は絶対的に自由で、非反省的な対自が、過去を無化していって、人間は常に自由に呪われている、みたいなことを言っているけれど、現在の科学の状況だと、とうてい受け入れがたいと思う。全て遺伝子と環境が悪い。19世紀のマーク・トウェインという人が「人間とは何か」という対話篇を書いているんだけれど、自由意志はあるという青年を、環境決定論のおじいさんが完全に論破するという筋書きになっている。面白いので読んでみてほしい。
で、遺伝子と環境=過去から自由になる方法はあるのか?クリシュナムルティという人は、それは「瞑想」によって達せられるという。人間は環境の産物であるということは、クリシュナムルティも完全に同意する。環境によって、思考が規定されて、感情が規定されて、不幸で、惨めな人間が量産される。ロボットのできあがり。どうすればいいか?それに「気づく」「観察する」のが唯一の道だという。自分の思考や感情といった、過去の産物を観察する。この「観察」という要素は、環境から来たのか、空から降ってきたのか知らないけれど、同じようなことを言っている禅僧のティクナットハンは、キリスト教でいう聖霊だと言っているので、そんな感じのものなんだろう。「過去からの産物を観察する」ことによって、理解して、それにコントロールされなくなる。
クリシュナムルティは毎日決まった時間で瞑想することを推奨してないけど(それも機械的になる可能性があるから)僕は毎日決まった時間に瞑想するほうが、効果があった。
僕の実体験として、僕は何度も再発する肺の病気にかかっていて、それがもう10回以上再発して、再発したら即手術なので、引きこもってからも、1日中肺のことばかり考えていて、頭がおかしくなりそうだった。これは遺伝子と環境=身体=過去=記憶から来ている思考と感情だろう。瞑想を始めて、数週間すると、思考が気にならなくなった。(再発したらどうしよう)という思考が湧いても、「ああ、いつものやつだな」と流せるようになった。僕はこれは、「過去からの解放」であると思う。
最近読んでるサルトルなんかだと、人間は絶対的に自由で、非反省的な対自が、過去を無化していって、人間は常に自由に呪われている、みたいなことを言っているけれど、現在の科学の状況だと、とうてい受け入れがたいと思う。全て遺伝子と環境が悪い。19世紀のマーク・トウェインという人が「人間とは何か」という対話篇を書いているんだけれど、自由意志はあるという青年を、環境決定論のおじいさんが完全に論破するという筋書きになっている。面白いので読んでみてほしい。
で、遺伝子と環境=過去から自由になる方法はあるのか?クリシュナムルティという人は、それは「瞑想」によって達せられるという。人間は環境の産物であるということは、クリシュナムルティも完全に同意する。環境によって、思考が規定されて、感情が規定されて、不幸で、惨めな人間が量産される。ロボットのできあがり。どうすればいいか?それに「気づく」「観察する」のが唯一の道だという。自分の思考や感情といった、過去の産物を観察する。この「観察」という要素は、環境から来たのか、空から降ってきたのか知らないけれど、同じようなことを言っている禅僧のティクナットハンは、キリスト教でいう聖霊だと言っているので、そんな感じのものなんだろう。「過去からの産物を観察する」ことによって、理解して、それにコントロールされなくなる。
クリシュナムルティは毎日決まった時間で瞑想することを推奨してないけど(それも機械的になる可能性があるから)僕は毎日決まった時間に瞑想するほうが、効果があった。
僕の実体験として、僕は何度も再発する肺の病気にかかっていて、それがもう10回以上再発して、再発したら即手術なので、引きこもってからも、1日中肺のことばかり考えていて、頭がおかしくなりそうだった。これは遺伝子と環境=身体=過去=記憶から来ている思考と感情だろう。瞑想を始めて、数週間すると、思考が気にならなくなった。(再発したらどうしよう)という思考が湧いても、「ああ、いつものやつだな」と流せるようになった。僕はこれは、「過去からの解放」であると思う。