虚栄心
最近、虚栄心とは何なのか考えている。虚栄心の根源、元の元は、「俺が誰なのか分からない」ということかもしれない。
自分が誰なのか、見当もつかない。僕は自分の名前があるけれど、僕はその名前の人物だと思ったことがないし、自分の顔を見ても自分だと思えない。なぜかいきなりこの世界に生まれてきて、なぜか勝手に苦しんで、死んで行く。俺は誰なんだ?
サルトルは、人間は本質的に「対他存在」だと言った。人間は、他者のまなざしに曝されながら生きている。自分ひとりでは、自分の存在根拠がないから、他者に「承認」されることで、「自己」という対象を承認できる。他者の承認がなければ、自分は何者なのか分からない。現に僕は、自分が誰なのかマジで分かっていない。家族に属しているという気分もなければ、学校や会社に属しているという気持ちもない。僕には「他者」が欠けているので、僕は僕が誰なのか分からない。想像だけれど、会社で働いていれば、「社員」、小説家なら「小説家」、王様なら「王様」という自己の存在根拠が、他人によって承認されるのだと思う。
ヘーゲルは、王様は臣下によって、王様になると言った。臣下がいなければ、王様はいない。
自撮りをツイッターにあげて、虚栄心を満たすのも、「自分が誰なのか分からないから」だ。才能がないのに小説を書くのも「自分が誰なのか分からないから」だ。哲学書を読んでるアピールをするのも「自分が誰なのか分からないから」だ。自分が誰なのか分からない。ツイッターというのは、自分が誰か分からない人が、自分の存在根拠を他者を媒介にして、確認するツールである。
他者というのは残酷なもので、自分の思い通りにはならない。本当の自分とは何なのか?初期仏教では、無我だという。アドヴァイタ哲学では、それは真我だという。禅仏教では、悟り=見性をすれば、本当の自分が見えるという。浄土真宗では、南無阿弥陀仏が、自分の本当の名前だという。
他者に自己の根拠を置くのではなく、こういった根源的な解決をしないと、虚栄という病気にかかったまま死んでしまうと思う。
自分が誰なのか、見当もつかない。僕は自分の名前があるけれど、僕はその名前の人物だと思ったことがないし、自分の顔を見ても自分だと思えない。なぜかいきなりこの世界に生まれてきて、なぜか勝手に苦しんで、死んで行く。俺は誰なんだ?
サルトルは、人間は本質的に「対他存在」だと言った。人間は、他者のまなざしに曝されながら生きている。自分ひとりでは、自分の存在根拠がないから、他者に「承認」されることで、「自己」という対象を承認できる。他者の承認がなければ、自分は何者なのか分からない。現に僕は、自分が誰なのかマジで分かっていない。家族に属しているという気分もなければ、学校や会社に属しているという気持ちもない。僕には「他者」が欠けているので、僕は僕が誰なのか分からない。想像だけれど、会社で働いていれば、「社員」、小説家なら「小説家」、王様なら「王様」という自己の存在根拠が、他人によって承認されるのだと思う。
ヘーゲルは、王様は臣下によって、王様になると言った。臣下がいなければ、王様はいない。
自撮りをツイッターにあげて、虚栄心を満たすのも、「自分が誰なのか分からないから」だ。才能がないのに小説を書くのも「自分が誰なのか分からないから」だ。哲学書を読んでるアピールをするのも「自分が誰なのか分からないから」だ。自分が誰なのか分からない。ツイッターというのは、自分が誰か分からない人が、自分の存在根拠を他者を媒介にして、確認するツールである。
他者というのは残酷なもので、自分の思い通りにはならない。本当の自分とは何なのか?初期仏教では、無我だという。アドヴァイタ哲学では、それは真我だという。禅仏教では、悟り=見性をすれば、本当の自分が見えるという。浄土真宗では、南無阿弥陀仏が、自分の本当の名前だという。
他者に自己の根拠を置くのではなく、こういった根源的な解決をしないと、虚栄という病気にかかったまま死んでしまうと思う。
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