哲学
哲学に何も期待してはいけない。哲学というのは「お喋り」に過ぎない。僕はそうとしか思えない。超越論的観念論とか、カテゴリーとか、実体とか、イデアとか、存在論的差異とか、対自的存在とか、弁証法とか、差延とか、器官なき身体とか、本当に「お喋り」に過ぎなくて、笑ってしまう。それがもし「お喋り」に過ぎないということを拒否するのなら、哲学は「信仰」になってしまうだろう。哲学は批判の繰り返しによって、膨大な「お喋り」になっているのだから、「信仰」になることはありえないだろう。そして、「お喋り」で、自分や他人の自殺を止めることはできない。「自殺」を阻止できる言葉だけが、価値のある言葉だと思う。
「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。そんなものは遊戯であり、先ずこの根本問題に答えなければならない。」というカミュの提言に、100%同意する。けれど、カミュの回答は同意しない。世界は意味の分からない、不条理なものである。だけど生きるべきだ。これには納得できない。意味が分からなかったら、自殺してもいいだろう。
「お喋り」では自殺を止めることができない。自殺を止めるのは、愛か信仰だろう。僕は、根本的に「言葉」というものに不信感がある。僕がよく言うことだが、言葉は嘘をつく道具である。くだらない、くだらない。憎しみまで覚えてしまう。哲学が憎い。
「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。そんなものは遊戯であり、先ずこの根本問題に答えなければならない。」というカミュの提言に、100%同意する。けれど、カミュの回答は同意しない。世界は意味の分からない、不条理なものである。だけど生きるべきだ。これには納得できない。意味が分からなかったら、自殺してもいいだろう。
「お喋り」では自殺を止めることができない。自殺を止めるのは、愛か信仰だろう。僕は、根本的に「言葉」というものに不信感がある。僕がよく言うことだが、言葉は嘘をつく道具である。くだらない、くだらない。憎しみまで覚えてしまう。哲学が憎い。
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