サルトルの恋愛論
愛されるというのは、「主観ー他者」からの他有化である。羞恥と愛の違いは、羞恥が「対象ー自己」を超越、道具化するのに対して、愛は「対象ー自己」を超越しない、言い換えれば究極の目的、世界の象徴にする。「対象ー自己」は、道具化されることがなく、その「対象ー自己」の周りに、さまざまな道具が配置される。愛は、「対象ー自己」による、「主観ー他者」の、自由の「我有化」である。自分の「対象性ー事実性」は、「他者ー主観」が「自由」によって、絶えず再創造し続けるという意味で、「救われる」。僕は僕になれる。
ただ、恋愛というのは一方的なわけがない。「愛する」というのは「愛されたい」という意味だ。「他者−主観」の、自由を「我有化」したいと、双方が思っている。言うなれば、双方が「対象」になりたいと願っており、他者を「主観」ならしめたいと思っている。彼が私を愛することは、私を落胆させる。なぜなら、彼が私を愛するのは、「私から愛されたいという企て」であり、私を「自己ー主観」ならしめる営みであるから。お互いが相手を「主観」にして、自分を「対象」としようとするので、お互いが挫折する。これが恋愛の悲劇である。
AさんとBさんがいる。AさんはBさんの、「主観の自由」によって、「Aさんそのものである対象」になろうとする。それが愛である。それが救いである。ただBさんも、Aさんの「主観の自由」によって、「Bさんそのものである対象」になろうとするので、お互いが「対象」になれずに、「主観」にとどまる。
ただ、恋愛というのは一方的なわけがない。「愛する」というのは「愛されたい」という意味だ。「他者−主観」の、自由を「我有化」したいと、双方が思っている。言うなれば、双方が「対象」になりたいと願っており、他者を「主観」ならしめたいと思っている。彼が私を愛することは、私を落胆させる。なぜなら、彼が私を愛するのは、「私から愛されたいという企て」であり、私を「自己ー主観」ならしめる営みであるから。お互いが相手を「主観」にして、自分を「対象」としようとするので、お互いが挫折する。これが恋愛の悲劇である。
AさんとBさんがいる。AさんはBさんの、「主観の自由」によって、「Aさんそのものである対象」になろうとする。それが愛である。それが救いである。ただBさんも、Aさんの「主観の自由」によって、「Bさんそのものである対象」になろうとするので、お互いが「対象」になれずに、「主観」にとどまる。
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