僕は早く死にたいのだと思う
小2の頃に、死後のことを想像して、宇宙がひっくり返る体験をした。その頃は「虚無」という難しい言葉は知らなかったけれど、「真っ暗で怖いところ」ということは分かった。そのころから僕は世界に違和感を抱いていて、学校へ行くのが苦痛で仕方がなかった。
「どうせ死ぬのになぜ生きなきゃいけないんだろう」ということをずっと考えてきた。引きこもってからは特に考えてきた。どうせ死ぬのに、今生きていなければいけない理由は、無いのだと思う。僕は自分が「死」と戦ってきたと思っていたが、実は僕は、死にたいだけなのだと思う。
友達が自殺したことが3回もあるけれど、どれも言い難い感情があった。か細く「羨ましい」という感情があったのは、最近気づいた。意識という病気から逃れるのは、どんなに幸福なんだろう。
1年前ごろか、僕は「いつ死んでもよくなりたい」と言っていた。良寛さんの「死ぬる時節には死ぬがよく候」という言葉に、強烈に憧れを抱いていた。死ねないのは、結局恐怖心があるからで、悟りを開くと、多分いつでも死ねるようになるんだろう。けれど僕は体が悪くて修行ができないので、念仏によって「いつ死んでもいい」を目指すようになった。早く死にたかったのだと思う。
阿弥陀仏は「唯の唯」で助けてくれるらしい。小2の頃は「真っ暗で怖いところ」だった死後のイメージは、今では「水色がかった光で満たされている、幸せなところ」に変わった。でも死ぬのは怖い。
昔のブログによく書いていたが、僕は「失望フェチ」である。全部に失望してきた。快楽主義の生き方にも失望したし、地上にあるもの、全てに失望をした、というのは言い過ぎだけれど、僕はとにかく失望がしたかった。この世に未練を残すのが嫌だったんだろう。
痛みもなく、苦しみもなく、砂のようにさらさらと崩れ落ちたい。終わりたい。
「どうせ死ぬのになぜ生きなきゃいけないんだろう」ということをずっと考えてきた。引きこもってからは特に考えてきた。どうせ死ぬのに、今生きていなければいけない理由は、無いのだと思う。僕は自分が「死」と戦ってきたと思っていたが、実は僕は、死にたいだけなのだと思う。
友達が自殺したことが3回もあるけれど、どれも言い難い感情があった。か細く「羨ましい」という感情があったのは、最近気づいた。意識という病気から逃れるのは、どんなに幸福なんだろう。
1年前ごろか、僕は「いつ死んでもよくなりたい」と言っていた。良寛さんの「死ぬる時節には死ぬがよく候」という言葉に、強烈に憧れを抱いていた。死ねないのは、結局恐怖心があるからで、悟りを開くと、多分いつでも死ねるようになるんだろう。けれど僕は体が悪くて修行ができないので、念仏によって「いつ死んでもいい」を目指すようになった。早く死にたかったのだと思う。
阿弥陀仏は「唯の唯」で助けてくれるらしい。小2の頃は「真っ暗で怖いところ」だった死後のイメージは、今では「水色がかった光で満たされている、幸せなところ」に変わった。でも死ぬのは怖い。
昔のブログによく書いていたが、僕は「失望フェチ」である。全部に失望してきた。快楽主義の生き方にも失望したし、地上にあるもの、全てに失望をした、というのは言い過ぎだけれど、僕はとにかく失望がしたかった。この世に未練を残すのが嫌だったんだろう。
痛みもなく、苦しみもなく、砂のようにさらさらと崩れ落ちたい。終わりたい。
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