人生入門

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ハイデガー 雑にまとめる

 マイケルゲルウィンの存在と時間注解と、轟氏の存在と時間入門を最近読んだ。その他諸々、はるか昔に読んだハイデガーの解説書を思い出しながらめちゃくちゃ雑にまとめる。存在と時間通読する用。

 哲学は存在への問いを忘れてしまった。普遍的であり、定義不可能であり、自明である存在という先入見によって、問われるのを忘れてしまった。だからハイデガーが問う。
 現存在=人間は、存在への漠然とした了解を持っているので、この現存在に存在の問いは問うべきであり、まずこの存在の存在体制を明確にしなければならない。だから現存在の実存を明らかにする。
 近代哲学は、世界を事物的=科学的に把握したことで間違えてしまった。世界は人間の目的によって、「道具的」に構成されている。
 被投性=気分に人間は彩られている。不機嫌や恐怖など。これが人間に向かっていやおうなく投げかけられる条件である。その中でも重要なのは「不安」であり、不安によって、頽落して、日常性に生きている状態が剥がれ落ちて、自分の真の生き方をすることができる。
 企投、了解とは、その気分に開示された世界の可能性を了解しながら、非措定的に自分の将来に関わっていくということである。
 死を先駆けることによって、人間は「単独者」になり、不安になる。大衆に紛れた頽落性、非本来性から抜け出して、本来的実存が回復される。
 
 存在とは時間であり、現存在は将来へ企投され続けているし、既在のものに、囚われている。
 
 これぐらい雑にしか理解してない。ちゃんと存在と時間読むぞ〜

実存的萌え声論

 萌え声と呼ばれる女たちがいる。読んで字のごとくなんだけれど、配信サイトやスカイプなどで、「作った」萌え声と呼ばれるアニメ声で喋っているキモい女のことだ。僕はこいつらが嫌いである。媚びた声も好きじゃないけれど、心根が嫌いである。

 萌え声女は、声を作ることによって、「萌え声」になることができる。言ってることが分かるだろうか?箱を被れば箱男になれるように(阿部公房)、萌え声を作れば「萌え声」になることができる。さやかちゃんでも、まなちゃんでも、ゆいちゃんでも、かなちゃんでもなく、「萌え声」になることができる。これが実に凶悪で、誰でもない、無名の「萌え声」になることによって、「責任」というものから逃れることができる。「萌え声」という箱を被ることによって、無名になった少女たちは、傍若無人に立ち振る舞う。だって悪いことしても、名前がないんだから、誰にもとがめられるいわれはない。萌え声は頽落した「世人」である。名もない人々である。そこには罪も良心もなく、非本来的な自己へ逃避して好き勝手する女がいるだけだ。

 2ちゃんねるの「名無し」にも通ずるところがあるが、萌え声は会話でこれをしてくるから最悪である。
 キモいから声を作るな。

優生思想 植松理論 宗教

 劣った人間は、淘汰されるべき。優れた人間だけが優れた社会を作るべき。こういうのを優生思想というらしい。「優/劣」というのは二項対立には、基準が必要である。現代の日本人は、この基準を「生産性」「役に立つ」に置いていると思う。僕はその意味で「劣」である。
 僕は劣っている何も生産しない障碍者側の人間なので、優生思想に与することはないけれど、社会に脈々とこの優生思想が通じているのは感じている。この前、全く知らない男とチャットしたんだけれど、「肺の病気と発達障害で働けてないです」と言ったら、「そんぐらい働けるでしょ、フリーライダーの屑」と言われた。こういう風当たりは常に感じていて、僕はそういう風を受けるたびに、「自分はいてはいけない存在なんだ」と思う。
 
 僕は、人のことを「生産性」「役に立つ」というモノサシでしか見れないのは、一種の病気だと思う。宗教と言ってもいいけれど、自分の「存在そのもの」を肯定してくれる親とか親族がいなかったから、そういった歪な思想になるのだと思う。昔読んだ「存在論的引きこもり論」という本に、「する自己(do)」と「ある自己(be)」という区別がしてあった。引きこもりはなにかをする、生産するという部分では全くの無能だが、そこにただ存在する、beingの部分では親のよりどころになっていることがよくあるらしい(そうじゃないことも勿論多いだろうけど)。「存在そのもの」を肯定されたことがない人は、他人の「存在そのもの」を肯定できなくなるのだと思う。そういった人は、「この人は自分の役に立つかどうか」「社会の役に立っているかどうか」という宗教にしか入信できずに、障碍者を惨殺しまくった植松被告と同じようなポジションに立つ。
 薬を考えよう。

・自分が弱者側に転落したときの想像をする。
 ただし、これは難しい。人間は「自分だけは大丈夫」と思っている人が大半で、自分が障害を持つことなんて想像できないと思う。僕もまさか自分が障碍者手帳2級の障碍者になるとは思わなかった。想像力が豊かな、頭の良い人にしかこの薬は効かない。

・実際に弱者になる
 これが一番効くと思う。うつ病になった人は、その「後遺症」で、うつ病が治ったあとに、人に優しくなることが多くなると言われている。僕はこれはその通りだと思う。ある精神科医によると、うつ病はガンよりも精神的にきついらしい。そういう「どん底」を知れば、わざわざ「想像」をしなくても「同情」できるようになると思う。けれど、これは一歩間違えば自殺する危険性がある。人の価値を「生産性」ではかっていた人間の「生産性」がなくなれば、自分は「いてはいけない存在」と思い詰めて、自殺してしまうかもしれない。

・無条件に愛される
 自分の「存在そのもの」が愛されている(いた)人は、人のことも生産性のようなモノサシではかることがないように思う。親というのは本当に大事で、子供のことを邪険にしたり、「この学校に入れば愛してあげる」というような愛し方をしていれば、子供は「愛」を条件があるものだと思ってしまう。ただ、親を創ることはできない。
 日本では、阿弥陀仏のことを「親さま」ということがある。無条件の愛をそそいでくれる存在だからだ。自分がどれだけ無能でも、馬鹿でも、愛してくれる「親さま」の子供になった人は、他人のことも「仏の子」と見れるんじゃないだろうか。

引きこもり論

 パスカルは、引きこもりを奨励しているようにしか思えない。
人間は屋根葺き職人だろうとなんだろうと、生まれつき、あらゆる職業に向いている。向いていないのは部屋の中でじっとしていることだけだ

ここから、賭け事や女性たちとの談話や栄職などがあんなに求められることになる。それ自体が幸福をもたらすからというわけではなく、(物思いにふけっていると陥る)我々の不幸な状態から思いをそらすためだ

 引きこもりというのは、人間の「本来的実存」である。賭け事や女性たちとの談話や栄職などは、頽落した人間の「非本来的実存」である。引きこもって本来的な存在でいることができれば、「この世の虚しさ」がありありと見えて、人生に「覚める」ことの契機になる。逆に、くだらないお喋りなどに時間を費やしていると、「この世の虚しさ」を知らない、直接的、動物的な人間になってしまう。パスカルの言葉をもう一つ引こう。
この世の虚しさを悟らない人は、その人自身がまさに虚しいのだ。

 引きこもることによって、この世の虚しさ=本質に目覚めることができる。この世の虚しさを知らない、「気晴らし」に没頭している人間たちは、この世界の本質を知らない。パスカルは、この世の虚しさを知った「部屋の中でじっとしている人たち」は、根本から虚しさを癒すために、信仰をするべきだと言ったが、僕もそう思う。あともう一つの根本的な解決は、部屋の中でじっとしている技法である「坐禅」を修養することだ。

 学校から帰ったあとに、布団に引きこもってもいい。休みの日に、家に引きこもって物思いにふけってもいい。それが「本来的」な人間の姿を暴いてくれる。僕は7年間引きこもっているので十分に人生になんの意味もないことが知れた。キルケゴールが、絶望を垣間見た後、それが怖くて直接性に戻ってしまう人もいると書いていたが、人間は引きこもり続けて、絶望を直視するべきだ。絶望を見る事は神を見ることだ。コロナ騒動でみんな引きこもっている今、テレビとかネットで気晴らしをするんじゃなく、本来的な実存に気づいてほしい。

大切な本に猫に糞された

 猫がトイレで糞をしてくれないのが、最近の悩みである。本が汚れる…。

 人間はなんで、トイレで糞をするのか。それは他人から「隠れる」ためだ。自分は「糞
」をするような、低俗な人間ではないと他人に思われないためだ。そういう高級な人間の欺瞞を、原口も見抜いている。
 
礼儀正しい芸術家たち。
 彼らの間のだれが、自分の居間ではふんどし一枚にならなかったと言えるか。

 ふんどし一枚になると穏やかな書き方をしているけれど、僕はもっと露悪的に「糞をする」と言いたい。
 糞をするくせに、偉そうにしてるんじゃないよ。「アイドルはうんこしない」と言われることがあるが、やっぱり「アイドル‐偶像」にまでなった人間は、うんこをしないんだろう。神様はうんこをしない。
 けれど、自分のことをどれだけ偉くみせようとしたって、人間は糞をする。身もふたもないけれど、現実は身もふたもない。僕らは人間は糞をする、というところから始めよう。人間は偉くない。糞をするから。
 仏教では、人間のことを「糞袋」と言うことがある。読んで字のごとく、糞が詰まっている袋だからだ。どれだけツイッターで高尚なことを言っても、芸術的なことを言っても、人間は糞が詰まっている袋に過ぎない。テッド・チャンを読もうが、ハイデガーを読もうが、現代音楽に造詣が深かろうが人間は糞をする。
 スッタニパータ、という一番古いお経があるんだけど、そこに載っている勝利の経というお経が僕は好きだ。
195.身体は腸に充ち、胃に充ち、また、肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓があります。

196.
(この身体には)鼻汁・唾液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏がある。

197.
またその9つの孔からは、常に不浄物が流れ出る。
目からは目やに、耳からは耳垢、

198.
鼻からは鼻汁が出る。 口からはあるときは(食べたものを)吐く。
またあるときは胆汁を、あるときは痰を吐く。
全身からは汗と垢とを排泄する。

199.
またその頭蓋骨の空室は脳髄に充ちている。
しかるに愚か者は無明に誘われて、
身体を清らかなものだと思いなす。

205.
不浄で、悪臭を放つ、この身体を人間が守っている。
種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。

206.
このような身体をもちながら、
自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、
かれは〈観る能力がない〉という以外の何だろう。

二十歳のエチュード

 僕が、僕の分身だと思っている原口統三と、対決してみよう。僕の敵は、リチャード・ドーキンスと、原口統三だ。
 原口は、この遺書を書いたあと、自殺した。僕はこの自殺に敬意を表すけれど、僕は自殺をすることができないので、対決をする必要があった。

太字:原口

「自己の思想を表現してみることは、所詮しょせん弁解にすぎない」
 この文章で遺書は始まっている。いかにもニーチェ主義者のいいそうな言表だ。ここで「自己の」思想と言われているのが、キーポイントだと思う。僕は、真理は独占できるものではないと思うし、原口の論理を超えるには「他者」がキーワードになってくると思う。
告白。――僕は最後まで芸術家である。いっさいの芸術を捨てた後に、僕に残された仕事は、人生そのものを芸術とすること、だった。
 このエチュードは、アフォリズム形式になっているのだが、そのアフォリズムの最初がこれである。人生を、自分で「創る」こと。ここに、「創る自分」と「創られる自分」との分離が見られる。最初の言表からして、自己分裂している。キルケゴールなら、「絶望をして自己自身であり続ける反抗」というだろう。ここに「他者」のファクターはない。神もいないし、仏もいないし、人間もいない。
傷のないところに痛みはない。僕にとって、認識するとは、生身を抉えぐることであり、血を流すことであった。そして、今、僕の誠実さの切尖が最後の心臓に擬せられたからとて、僕は躊躇ためらうだろうか。
「創る自分」は「見る自分」へともなれる。誠実さをもった「眼」が、「見られる自己」を見てしまう。
論理は、必ず逆襲できるし、破壊することも可能である。
「生身の自分」と乖離した意識は、いくらでも自由に飛び回ることができる。意識に論理はない。けれどそれは、「自意識」にとってにしかすぎない。
「幸福」の私生児、僕はいっさいの契約をご破算にした。僕の仇敵は「虚無」という怪物であり、僕は至る所で彼の兄弟に出会した――「安心」と「満足」と。
 最後に僕は、勝利の女神と対決した。

ここが僕と原口の、唯一の出発点の違いであり、そこが自殺するか否かの決め手かもしれない。僕の仇敵は虚無である。当り前である。けれども僕は「安心」を虚無の兄弟だとは思わない。逆に、虚無が癒えた者が、真に安心するものだと思っている。
伝えうるものの領域を究めた結果、僕はその境界を超えてしまった。
今日、僕は、自分の語ること、考えることが、皆目嘘八百にしか感ぜられぬのだ。

 「創る自分」「見る自分」の「形式」が強くなりすぎて、「内容」がなくなってしまった。「創る自分」という「幾何学的な点」は、全く「自由」に「創られる自分」を創作することができるが、自由が故に、全てが「嘘」になる。全て、いつでも「ご破算」にすることができるのだから、真剣みはなくなる。
思索とは表現の可能性に対して行なわれる精神の賭博である。僕の自意識は、思想のルーレットを己の意のままに廻すことができた。だが賭金などに用はなかった。
 思想はそれゆえ、賭けに比喩されるものになる。偶然性、根拠のなさ。
しかし批評することは、どこまで行っても自己を許すことである。つまり自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能である。
 ここまで到達した後に僕は死を決意した。僕は「より誠実であろう」とするものであって結果を恐れるものではない。僕はどうしても自分を許せなかったのだ。

 これが、このエチュードで一番決定的な宣言である。「批評する自己」は「批評される自己」になることができない。それは、自分の中にいつも「批評する自己」という安楽椅子を置くことだ。それが原口には耐えられないし、僕にも耐えられない。「僕はどうしても自分を許せなかったのだ」という言葉。自分で自分を許すことなどできるだろうか?ならば告解所というものはいらない。原口には決定的に「他者」が欠けている。
僕は忸なれ合いが嫌いだ。僕の手は乾いている。
 原口は、孤独だ。
かつて多くの傲慢な「認識者」たちが、自分の周囲に集めた仲間、弟子。
「頭の中にあるものを出す」「一ぱいに満ち溢れた蜜がこぼれる」
 ニーチェが巧みに弁解するところのこうした必然性を僕は拒んだ。
 自己の思想の中に他人を化そうというこの願望は一つの弱気を含む。僕は「弱気だ」、と簡潔に言おう。

 確かに、「師」は傲慢である。原口は「弟子」になるべきではなかったのか?
表現とは、所詮自己を許容する量の大小のあらわれにすぎない。
 それは、正確に対して忠実・厳密でない、ということだ。
 右の考えから、次の「悪魔の試論」へ。

 人間は、自己の真情を吐露しようと欲することにおいて、罰せられている。

 これには今でも同意する。人間の表現欲求は、罰せられるべきだ。
僕においては、精神はあくまで言語と区別される。それは表現とは別箇に独立したものである。「精神」という単語の受けとり方の問題になるなら、僕は精神をこうしたものだと定義すると言おう。僕はこのけっして人に知られない、沈黙した実体の存在を信じているのだ。
 それは「精神の肉体」と言う僕の発明した言葉で指摘してもいい、実証論者たちは、これを亡霊だと揶揄して凱歌をあげるだろう。それは当然だ。けれども僕はやつらを無視することができる。僕はいつでも、だれにも知られぬ孤独の中にのみ誠実さを見いだすのだ。

 久々に読み返して、この言明も重要だと初めて思い直した。「だれにも知られぬ孤独の中にのみ誠実を見出すのだ」この「精神の肉体」というものだけに、「誠実」があるらしい。何度も言うが、彼には本当に「他者」が欠けている。ヘーゲルの主奴論、サルトルの対他存在に証明されているように、「自己」の「核心」には他者が存在している。「自意識」というのは「恥じる」ということだ。恥というのは、「他者の前」以外にはありえない。自意識というのは、そもそも他者に食われている。だれにも知られぬ孤独というのは、自意識ではない。
救済の観念をどこかに含まないような思想は、ない。
 ところが、僕には「救済」ほど、思想を曖昧にするものはないのだ。

 彼の自殺も、「救済」だっただろう。あえて逃避とは言わない。人は救われねばならぬのだ。
生まれつき、弟子らしい顔をした人がいる。
 僕はこうした人が好きだ。それはか弱い印象を与えるけれども清純さに溢れている。
 そして、弟子は師よりも元来自由なものだ。

 彼も薄々気づいていたのではないか、「師」は傲慢で穢れたものだけれど、「弟子」は謙虚で美しいものだ。彼は師を持つべきだった。
自我の純潔さは、それが他の魂に住めないほどにか弱く、けっして他に犯されることがないほど強い、ということである。
 それは違う。自閉した論理。
警告。――何人も、僕の半生をすなおに受け入れてはならぬ。
 死に至るまで、僕の演ずる行ないはすべて――善良な友よ。君たちに聞かせた、たあいない寝言の片言隻句に至るまで、小説に書かれるためのお茶番であるかもしれないのだよ。

 「創る自己」の圧政。彼は、自分の人生を小説だと言っている。小説は、誰かに読まれるものだ。なぜ小説を書くのか?それは他者が読むからだ。「創る自己」からして、すでに他者が巣くっている。
すべての思想は、それが「生きること」と結びつけられる時に、必ず宗教的形態をとるものである。そうしてまたその根底に信仰的要素を持たぬような思想は「生きる」人々にとって一顧の価値もないであろう。いかなる形にもせよ、信仰は常に人間の棲息する処に存在する。
 彼が信仰を拒否するのは、自意識は自由なルーレットであると「信じて」いるからだ。彼なら、自分にとっては信仰もまた、いつでもひっくり返すことのできる脆い虚像にすぎないというだろう。原口君…、自意識は他者の前にしか存在しないのだ。

 原口には、他者というファクターが決定的に欠けていた。猛烈な「自意識」を殺すには、必ず「師」が必要なのだ。彼は、師の元で坐禅をして、自意識の亡霊から身体性へ回帰するか、念仏をして、絶対他者によって自意識を「融解」させることぐらいしか、生き延びる道はなかっただろう。「批評する自我」を殺すには、「他者」の「喝」が必要なのである。
 彼は決して「必然性に妥協しない自由な自意識」などではなかった。彼は他者の前に立っている有限な個である。「自由な自意識」というのは、彼の「信仰」である。
 それでも僕は彼に敬意を表そう。彼は、無残に勝利したのだから。
 
「表現は所詮自己を許容する量の多少のあらわれにすぎぬ」
「誠実さは常に全き孤独の中にある」
 この箴言しんげんの前に、謙虚であろう。
 それはこのエチュードを止めて抛り出すことだ。そして、僕をも含めてすべての人に貼りつけたレッテルをはがしてしまうことだ。
 僕はもう自分を誠実であったとも言うまい。
 沈黙の国に旅立つ前に、深く謝罪しよう。
「僕は最後まで誠実ではなかった」と。


 

賢さとは何か、こじらせとは何か、死に至る病

 僕はキルケゴールの死に至る病を4冊持っている。何回も繰り返し読んだけれど、一番重要なところは、前半の、意識という規定のもとに見られた絶望、の分析だと思う。これは僕は「こじらせ」の分析にもなっていると思って、僕はこの「こじらせ」が高い人間ほど、賢いと感じる。「こじらせ」が高い人間は、意識のパーセンテージが高い。キルケゴールの分析では「永遠性」とか「絶望」とか宗教的な用語が出てくるので取っつきにくかったが、今は抵抗もなく読める。昔は「永遠」の部分に「死」を代入して読んでいた。自分流に思いっきり解釈するので、気になった人は自分で読んでほしい。

a 自分が絶望であることを知らないでいる絶望。あるいは、自分が自己というものを、永遠な自己というものを、もっていることについての絶望的な無知。
 これが絶望と言われるのは、キルケゴールが、絶望というものを「自己自身でないこと」だと規定しているからだ。そして「自己自身」になるためには、信仰をするしかない。という趣旨なんだけれど、僕はこれを「自分が死ぬことを知らないバカな人」のことだと考える。絶望していることを意識していない絶望のことを、キルケゴールは「直接性」に生きているという。僕の言葉でいうと、「死という鏡で己を見ていない人」のことだ。自分自身の死を見れば、いずれ自分が「反省」されて、キルケゴールのいうように、「絶望」も一歩深まるだろう。
 一言でいえば、「動物みたいな人」のことだ。

b自分が絶望であることを自覚している絶望。したがって、この絶望は、或る永遠なものをうちに含む自己というものを自分がもっていることを自覚しており、そこで、絶望して自己自身であろうと欲しないか、それとも、絶望して自己自身であろうと欲するか、そのいずれかである。

 先ほどよりも、一歩進んでいる。自分が永遠を持っていることを意識している。これには2種類の絶望がある。 
 
α絶望して、自己自身であろうと欲しない絶望、弱さの絶望
1地上的な或るものについての絶望
 地上的な或るものについての絶望は、まだまだ「浅い」。何か病気になったり、身内に不幸が起きたり、失恋をしたりすると、人間は「絶望」をする。これは本当の絶望ではない。「何かについての絶望」であって、「永遠性への絶望」ではないので、上っ面な絶望である。神を信仰して、自己自身であることが、絶望を癒す唯一の方法だが、この上っ面の絶望をしている人は、「あの人みたいになりたい」といって、自己を放棄しようとまでする。この人はまだまだ「浅い」。
 「反省」というファクターが加えられると、少し深みがでる。外部からなんの不幸がなくても、「俺はなんなんだ」という自分への反省が加えられる。彼は一瞬、自らの絶望、永遠性を垣間見るけれど、怖くなって、また直接性へ帰ってしまう。

2永遠なものに対する絶望、もしくは、自己自身についての絶望。
 「地上的な或るもの」へ失望していった結果、人間は「地上にあるもの全て」に絶望するようになる。そうすると次に進む。彼は、自分の「弱さ」について絶望するようになる。地上的なものは虚しい、永遠なものこそ手に入れるべき、だと考えているけれど、それでも永遠性に手を伸ばそうとは思わない。彼の「反省」の度合いは世間では珍しい。永遠なものへの憧憬がある。けれども挫折する。自分は弱い。自分の弱さへの絶望。
 昔は、この絶望を、「自らの有限性に気づいた人」のことだと言い換えていた。でも今考えるとそれはキルケゴールと同じことを言っているに過ぎない。自らの有限性に気づけば、永遠なものを志向せざるをえないのだから。

β絶望して、自己自身であろうとする絶望、反抗
 キルケゴールにとって、自己自身になるとは、神を信仰することだけれど、ここでいう自己自身はそういうことではなく、「自分で自分を創り出そうとする人」のことだ。僕は、昔ここにいた。僕が共感した人達も、全てここにいた。
「告白。――僕は最後まで芸術家である。いっさいの芸術を捨てた後に、僕に残された仕事は、人生そのものを芸術とすること、だった——————原口統三」
 まさに神に反抗する絶望である。
「僕の自意識は、思想のルーレットを己の意のままに廻すことができた。だが賭金などに用はなかった。—————原口統三」
 キルケゴールはいう。
「この自己は、まったく思いのままにいつなんどきにも初めから始めることができる、そして一つの思想がどれほど長く追及されるにしても、その行動の全体は仮設の埒内を出ることがない。」
 自己が自己を創る。そういったモチーフの小説もあった。「僕は模造人間」という小説だ。自己の中に分裂した2人が存在していて、自意識が、必然性を食い破る。その小説に、好きな女との性交渉の挿入の直前に、急にオナニーを始めるというシーンがあるんだけれど、これこそまさに、「この自己は、まったく思いのままにいつなんどきにも初めから始めることができる」というキルケゴールの言葉にふさわしい。

 ここまでまとめたけれど、僕は、上から下へ行くほど「頭が良い」し、「こじらせている」と思う。しかし、その先は…?キルケゴールは、この本を教化的であると序文に何度も書いている。「仮設の」自己自身であろうとする絶望は、「真の」自己自身である救済へと、向かうしかないのではないだろうか。

真理 折伏

 日蓮系の仏教では、よく「折伏」というものが行われる。相手の考えが間違えてるから、(時には強引に)論破して、相手を法華経の信者にさせるという勧誘方法である。僕はこれが大嫌いである。真宗系の〇〇会もこれをやっているらしいけれど、創価学会の手法をまねて布教しているらしいので、さもありなん、という感じだ。インターネットで折伏の様子を見る事ができるけれど、正直怖い。「自分が絶対に正しい」という前提にたって、「相手のために」相手の信じている宗教の揚げ足を取ってボロクソに言う。僕は宗教のこういうところが嫌いだ。キリスト教も同じ論理だろう。「野蛮な犬」である異教徒は、改宗させるか、殺すしかない。そういう蛮行が歴史上にいくつもある。イスラム教は他宗教に寛容だったらしいけれど。
 「自分が正しいから相手を正さなければならない」というのが行きつくと、後期チベット密教の、この最悪の結論が導き出される。「度脱、すなわち呪殺の行為は、利他行である。救済しがたい粗野な衆生を利益する、まさに仏の大慈悲である」某真理教が、「ポア」をしたのは、まさにこの論理である。
 この論理は、宗教の世界だけではない。「俺は反出生主義という真理を知っているから、馬鹿な出生主義者共を更生させなければならない」「私は目覚めたフェミニストだから、男社会に洗脳されている可哀そうな女を目覚めさせなければならない」「俺はハイデガー主義者で、実存的に生きているから、頽落している大衆とは違う」「俺は韓国の真実を知っている。これを何も知らない大衆に広めなければ」いくらでもある。
 
 仏教では、自分の考えは「見」といって、捨てなければならないものとされる。この「見」を全て捨てることによって、世界を「あるがまま」に見ることができるようになったのが聖者だと言っていいかもしれない。
「よう『ボクの考えでは』とエラソウにいいおるが、ボクの考えなんか、どうせダメなんじゃ。-黙っとれ。—————沢木興道」

 仏教は「主義」を持たないのが特徴である。大乗仏教は多仏の世界であり、それもまあ一つの「真如」「あるがまま」に収斂されるのだと思うけれど、いろいろな仏がいる、リベラルな世界と言っていいかもしれない。その「あるがまま」から出てくるのが「南無阿弥陀仏」である。それも「見」では?と思う人もいると思うが、そういう人は法蔵菩薩の48願を読んでほしい。
 金子大栄という近代の偉い念仏者は、科学にも仏があり、芸術にも仏があるという。そして、阿弥陀如来の四十八願の中の、四十一願以降の「他方国土の諸菩薩衆に〇〇の功徳がありますように」という願を「他宗教」の人や哲学、芸術で真理を求めている人への願だと解釈している。他の宗教のことも尊重して、幸福を願う阿弥陀仏という仏には、本当に頭が下がる。
 たしか村田和上という偉いお坊さんが「キリスト教とか他の宗派の勢いも強いですけどどうしたらいいですか」と門徒に問われたところ、「お前が念仏をしてたらそれでいい。勝手に広まる。」と答えたらしい。真理というのは、「折伏」しなくても、勝手に広まるものだと思う。

生きる意味

 生きる意味を聞いたら、それを探して生きてる、とか、それは自分で創り出すものだ、とかよく聞く。僕はどれもこれもつまらないと思う。
 だって、自分が作った自分の生きる意味なんか、「自分」が死んでしまえば、跡形もなくなるから。僕は生きる意味というのは他者に依存しなければ、虚しいと思う。
 その意味で、家系とか子孫に生きる意味を託していた中国人や昔の日本人なんかは割と賢いと思う。自分が死んでも、家や子孫は生きている。インディアンなんかは、「土地」のために生きていたらしい。先祖代々の、土地を守るために生きていた。その土地が白人共にボロボロにされたせいで、生の意味がなくなり、自殺してしまったインディアンも多くいたらしい。
 「他者のために生きる」ことは、割と虚しくないんじゃないかと思う。

 けれども、いずれ地球は太陽へ飲み込まれて無になる。生き物はみんな死に絶える。故に死なない他者が必要であり、それが阿弥陀仏という他者なのだろう。

無常

 「無常」の一言で全てが尽きる。浩瀚な哲学書をものにしても、そんなものは無常だ。何にもならない。無常というのは究極的な普遍的真理であるから、どんなものにでも例えられる。
 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。—————方丈記
 散る桜 残る桜も 散る桜————良寛和尚

 本当になんでもいい。泡や桜が分かりやすいだけで、今使っているPCも流行った音楽もアイドルグループも家族もパソコンも哲学も宗教も自分も全部無常である。これは僕がオリジナルではないかもしれないけれど、砂浜に絵を描くという比喩が気に入っている。砂浜に絵を描くと、次の日には潮が洗い流している。漣(さざなみ)が浜へ打ち付けて、「形」を消し去ってしまう。全ての表現は、これとスケールが違うだけで、同じことをやっているだけなんじゃなかろうか。数百年後には、誰も芥川龍之介なんか知らないし、芥川賞を盗った人なんて、数十年後には誰も覚えてない。漣(さざなみ)が全てを押し流してしまう。

 何もかも虚しくないか。哲学も無常。表現も無常。労働も無常。家族も無常。「無常について考えること」も無常。
 昔書いた短歌
 「何もかも、何もかも、っていい響き 何もかも終わっていくんだね」

 無常は「本質」である。事物の、核の核である。「だからなに?無常じゃん」で全て終わってしまう。

 浄土は常住の国といって、無常ではないらしい。無常が全ての虚しさの根拠だとしたら、浄土は全てが虚しくないんだろうか。早く行ってみたい。時間が事物を無化していかない場所なんて、想像もできないけれど。
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