引きこもり論
パスカルは、引きこもりを奨励しているようにしか思えない。
引きこもりというのは、人間の「本来的実存」である。賭け事や女性たちとの談話や栄職などは、頽落した人間の「非本来的実存」である。引きこもって本来的な存在でいることができれば、「この世の虚しさ」がありありと見えて、人生に「覚める」ことの契機になる。逆に、くだらないお喋りなどに時間を費やしていると、「この世の虚しさ」を知らない、直接的、動物的な人間になってしまう。パスカルの言葉をもう一つ引こう。
引きこもることによって、この世の虚しさ=本質に目覚めることができる。この世の虚しさを知らない、「気晴らし」に没頭している人間たちは、この世界の本質を知らない。パスカルは、この世の虚しさを知った「部屋の中でじっとしている人たち」は、根本から虚しさを癒すために、信仰をするべきだと言ったが、僕もそう思う。あともう一つの根本的な解決は、部屋の中でじっとしている技法である「坐禅」を修養することだ。
学校から帰ったあとに、布団に引きこもってもいい。休みの日に、家に引きこもって物思いにふけってもいい。それが「本来的」な人間の姿を暴いてくれる。僕は7年間引きこもっているので十分に人生になんの意味もないことが知れた。キルケゴールが、絶望を垣間見た後、それが怖くて直接性に戻ってしまう人もいると書いていたが、人間は引きこもり続けて、絶望を直視するべきだ。絶望を見る事は神を見ることだ。コロナ騒動でみんな引きこもっている今、テレビとかネットで気晴らしをするんじゃなく、本来的な実存に気づいてほしい。
人間は屋根葺き職人だろうとなんだろうと、生まれつき、あらゆる職業に向いている。向いていないのは部屋の中でじっとしていることだけだ
ここから、賭け事や女性たちとの談話や栄職などがあんなに求められることになる。それ自体が幸福をもたらすからというわけではなく、(物思いにふけっていると陥る)我々の不幸な状態から思いをそらすためだ
引きこもりというのは、人間の「本来的実存」である。賭け事や女性たちとの談話や栄職などは、頽落した人間の「非本来的実存」である。引きこもって本来的な存在でいることができれば、「この世の虚しさ」がありありと見えて、人生に「覚める」ことの契機になる。逆に、くだらないお喋りなどに時間を費やしていると、「この世の虚しさ」を知らない、直接的、動物的な人間になってしまう。パスカルの言葉をもう一つ引こう。
この世の虚しさを悟らない人は、その人自身がまさに虚しいのだ。
引きこもることによって、この世の虚しさ=本質に目覚めることができる。この世の虚しさを知らない、「気晴らし」に没頭している人間たちは、この世界の本質を知らない。パスカルは、この世の虚しさを知った「部屋の中でじっとしている人たち」は、根本から虚しさを癒すために、信仰をするべきだと言ったが、僕もそう思う。あともう一つの根本的な解決は、部屋の中でじっとしている技法である「坐禅」を修養することだ。
学校から帰ったあとに、布団に引きこもってもいい。休みの日に、家に引きこもって物思いにふけってもいい。それが「本来的」な人間の姿を暴いてくれる。僕は7年間引きこもっているので十分に人生になんの意味もないことが知れた。キルケゴールが、絶望を垣間見た後、それが怖くて直接性に戻ってしまう人もいると書いていたが、人間は引きこもり続けて、絶望を直視するべきだ。絶望を見る事は神を見ることだ。コロナ騒動でみんな引きこもっている今、テレビとかネットで気晴らしをするんじゃなく、本来的な実存に気づいてほしい。
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