二十歳のエチュード | 人生入門

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二十歳のエチュード

 僕が、僕の分身だと思っている原口統三と、対決してみよう。僕の敵は、リチャード・ドーキンスと、原口統三だ。
 原口は、この遺書を書いたあと、自殺した。僕はこの自殺に敬意を表すけれど、僕は自殺をすることができないので、対決をする必要があった。

太字:原口

「自己の思想を表現してみることは、所詮しょせん弁解にすぎない」
 この文章で遺書は始まっている。いかにもニーチェ主義者のいいそうな言表だ。ここで「自己の」思想と言われているのが、キーポイントだと思う。僕は、真理は独占できるものではないと思うし、原口の論理を超えるには「他者」がキーワードになってくると思う。
告白。――僕は最後まで芸術家である。いっさいの芸術を捨てた後に、僕に残された仕事は、人生そのものを芸術とすること、だった。
 このエチュードは、アフォリズム形式になっているのだが、そのアフォリズムの最初がこれである。人生を、自分で「創る」こと。ここに、「創る自分」と「創られる自分」との分離が見られる。最初の言表からして、自己分裂している。キルケゴールなら、「絶望をして自己自身であり続ける反抗」というだろう。ここに「他者」のファクターはない。神もいないし、仏もいないし、人間もいない。
傷のないところに痛みはない。僕にとって、認識するとは、生身を抉えぐることであり、血を流すことであった。そして、今、僕の誠実さの切尖が最後の心臓に擬せられたからとて、僕は躊躇ためらうだろうか。
「創る自分」は「見る自分」へともなれる。誠実さをもった「眼」が、「見られる自己」を見てしまう。
論理は、必ず逆襲できるし、破壊することも可能である。
「生身の自分」と乖離した意識は、いくらでも自由に飛び回ることができる。意識に論理はない。けれどそれは、「自意識」にとってにしかすぎない。
「幸福」の私生児、僕はいっさいの契約をご破算にした。僕の仇敵は「虚無」という怪物であり、僕は至る所で彼の兄弟に出会した――「安心」と「満足」と。
 最後に僕は、勝利の女神と対決した。

ここが僕と原口の、唯一の出発点の違いであり、そこが自殺するか否かの決め手かもしれない。僕の仇敵は虚無である。当り前である。けれども僕は「安心」を虚無の兄弟だとは思わない。逆に、虚無が癒えた者が、真に安心するものだと思っている。
伝えうるものの領域を究めた結果、僕はその境界を超えてしまった。
今日、僕は、自分の語ること、考えることが、皆目嘘八百にしか感ぜられぬのだ。

 「創る自分」「見る自分」の「形式」が強くなりすぎて、「内容」がなくなってしまった。「創る自分」という「幾何学的な点」は、全く「自由」に「創られる自分」を創作することができるが、自由が故に、全てが「嘘」になる。全て、いつでも「ご破算」にすることができるのだから、真剣みはなくなる。
思索とは表現の可能性に対して行なわれる精神の賭博である。僕の自意識は、思想のルーレットを己の意のままに廻すことができた。だが賭金などに用はなかった。
 思想はそれゆえ、賭けに比喩されるものになる。偶然性、根拠のなさ。
しかし批評することは、どこまで行っても自己を許すことである。つまり自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能である。
 ここまで到達した後に僕は死を決意した。僕は「より誠実であろう」とするものであって結果を恐れるものではない。僕はどうしても自分を許せなかったのだ。

 これが、このエチュードで一番決定的な宣言である。「批評する自己」は「批評される自己」になることができない。それは、自分の中にいつも「批評する自己」という安楽椅子を置くことだ。それが原口には耐えられないし、僕にも耐えられない。「僕はどうしても自分を許せなかったのだ」という言葉。自分で自分を許すことなどできるだろうか?ならば告解所というものはいらない。原口には決定的に「他者」が欠けている。
僕は忸なれ合いが嫌いだ。僕の手は乾いている。
 原口は、孤独だ。
かつて多くの傲慢な「認識者」たちが、自分の周囲に集めた仲間、弟子。
「頭の中にあるものを出す」「一ぱいに満ち溢れた蜜がこぼれる」
 ニーチェが巧みに弁解するところのこうした必然性を僕は拒んだ。
 自己の思想の中に他人を化そうというこの願望は一つの弱気を含む。僕は「弱気だ」、と簡潔に言おう。

 確かに、「師」は傲慢である。原口は「弟子」になるべきではなかったのか?
表現とは、所詮自己を許容する量の大小のあらわれにすぎない。
 それは、正確に対して忠実・厳密でない、ということだ。
 右の考えから、次の「悪魔の試論」へ。

 人間は、自己の真情を吐露しようと欲することにおいて、罰せられている。

 これには今でも同意する。人間の表現欲求は、罰せられるべきだ。
僕においては、精神はあくまで言語と区別される。それは表現とは別箇に独立したものである。「精神」という単語の受けとり方の問題になるなら、僕は精神をこうしたものだと定義すると言おう。僕はこのけっして人に知られない、沈黙した実体の存在を信じているのだ。
 それは「精神の肉体」と言う僕の発明した言葉で指摘してもいい、実証論者たちは、これを亡霊だと揶揄して凱歌をあげるだろう。それは当然だ。けれども僕はやつらを無視することができる。僕はいつでも、だれにも知られぬ孤独の中にのみ誠実さを見いだすのだ。

 久々に読み返して、この言明も重要だと初めて思い直した。「だれにも知られぬ孤独の中にのみ誠実を見出すのだ」この「精神の肉体」というものだけに、「誠実」があるらしい。何度も言うが、彼には本当に「他者」が欠けている。ヘーゲルの主奴論、サルトルの対他存在に証明されているように、「自己」の「核心」には他者が存在している。「自意識」というのは「恥じる」ということだ。恥というのは、「他者の前」以外にはありえない。自意識というのは、そもそも他者に食われている。だれにも知られぬ孤独というのは、自意識ではない。
救済の観念をどこかに含まないような思想は、ない。
 ところが、僕には「救済」ほど、思想を曖昧にするものはないのだ。

 彼の自殺も、「救済」だっただろう。あえて逃避とは言わない。人は救われねばならぬのだ。
生まれつき、弟子らしい顔をした人がいる。
 僕はこうした人が好きだ。それはか弱い印象を与えるけれども清純さに溢れている。
 そして、弟子は師よりも元来自由なものだ。

 彼も薄々気づいていたのではないか、「師」は傲慢で穢れたものだけれど、「弟子」は謙虚で美しいものだ。彼は師を持つべきだった。
自我の純潔さは、それが他の魂に住めないほどにか弱く、けっして他に犯されることがないほど強い、ということである。
 それは違う。自閉した論理。
警告。――何人も、僕の半生をすなおに受け入れてはならぬ。
 死に至るまで、僕の演ずる行ないはすべて――善良な友よ。君たちに聞かせた、たあいない寝言の片言隻句に至るまで、小説に書かれるためのお茶番であるかもしれないのだよ。

 「創る自己」の圧政。彼は、自分の人生を小説だと言っている。小説は、誰かに読まれるものだ。なぜ小説を書くのか?それは他者が読むからだ。「創る自己」からして、すでに他者が巣くっている。
すべての思想は、それが「生きること」と結びつけられる時に、必ず宗教的形態をとるものである。そうしてまたその根底に信仰的要素を持たぬような思想は「生きる」人々にとって一顧の価値もないであろう。いかなる形にもせよ、信仰は常に人間の棲息する処に存在する。
 彼が信仰を拒否するのは、自意識は自由なルーレットであると「信じて」いるからだ。彼なら、自分にとっては信仰もまた、いつでもひっくり返すことのできる脆い虚像にすぎないというだろう。原口君…、自意識は他者の前にしか存在しないのだ。

 原口には、他者というファクターが決定的に欠けていた。猛烈な「自意識」を殺すには、必ず「師」が必要なのだ。彼は、師の元で坐禅をして、自意識の亡霊から身体性へ回帰するか、念仏をして、絶対他者によって自意識を「融解」させることぐらいしか、生き延びる道はなかっただろう。「批評する自我」を殺すには、「他者」の「喝」が必要なのである。
 彼は決して「必然性に妥協しない自由な自意識」などではなかった。彼は他者の前に立っている有限な個である。「自由な自意識」というのは、彼の「信仰」である。
 それでも僕は彼に敬意を表そう。彼は、無残に勝利したのだから。
 
「表現は所詮自己を許容する量の多少のあらわれにすぎぬ」
「誠実さは常に全き孤独の中にある」
 この箴言しんげんの前に、謙虚であろう。
 それはこのエチュードを止めて抛り出すことだ。そして、僕をも含めてすべての人に貼りつけたレッテルをはがしてしまうことだ。
 僕はもう自分を誠実であったとも言うまい。
 沈黙の国に旅立つ前に、深く謝罪しよう。
「僕は最後まで誠実ではなかった」と。


 

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