賢さとは何か、こじらせとは何か、死に至る病 | 人生入門

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賢さとは何か、こじらせとは何か、死に至る病

 僕はキルケゴールの死に至る病を4冊持っている。何回も繰り返し読んだけれど、一番重要なところは、前半の、意識という規定のもとに見られた絶望、の分析だと思う。これは僕は「こじらせ」の分析にもなっていると思って、僕はこの「こじらせ」が高い人間ほど、賢いと感じる。「こじらせ」が高い人間は、意識のパーセンテージが高い。キルケゴールの分析では「永遠性」とか「絶望」とか宗教的な用語が出てくるので取っつきにくかったが、今は抵抗もなく読める。昔は「永遠」の部分に「死」を代入して読んでいた。自分流に思いっきり解釈するので、気になった人は自分で読んでほしい。

a 自分が絶望であることを知らないでいる絶望。あるいは、自分が自己というものを、永遠な自己というものを、もっていることについての絶望的な無知。
 これが絶望と言われるのは、キルケゴールが、絶望というものを「自己自身でないこと」だと規定しているからだ。そして「自己自身」になるためには、信仰をするしかない。という趣旨なんだけれど、僕はこれを「自分が死ぬことを知らないバカな人」のことだと考える。絶望していることを意識していない絶望のことを、キルケゴールは「直接性」に生きているという。僕の言葉でいうと、「死という鏡で己を見ていない人」のことだ。自分自身の死を見れば、いずれ自分が「反省」されて、キルケゴールのいうように、「絶望」も一歩深まるだろう。
 一言でいえば、「動物みたいな人」のことだ。

b自分が絶望であることを自覚している絶望。したがって、この絶望は、或る永遠なものをうちに含む自己というものを自分がもっていることを自覚しており、そこで、絶望して自己自身であろうと欲しないか、それとも、絶望して自己自身であろうと欲するか、そのいずれかである。

 先ほどよりも、一歩進んでいる。自分が永遠を持っていることを意識している。これには2種類の絶望がある。 
 
α絶望して、自己自身であろうと欲しない絶望、弱さの絶望
1地上的な或るものについての絶望
 地上的な或るものについての絶望は、まだまだ「浅い」。何か病気になったり、身内に不幸が起きたり、失恋をしたりすると、人間は「絶望」をする。これは本当の絶望ではない。「何かについての絶望」であって、「永遠性への絶望」ではないので、上っ面な絶望である。神を信仰して、自己自身であることが、絶望を癒す唯一の方法だが、この上っ面の絶望をしている人は、「あの人みたいになりたい」といって、自己を放棄しようとまでする。この人はまだまだ「浅い」。
 「反省」というファクターが加えられると、少し深みがでる。外部からなんの不幸がなくても、「俺はなんなんだ」という自分への反省が加えられる。彼は一瞬、自らの絶望、永遠性を垣間見るけれど、怖くなって、また直接性へ帰ってしまう。

2永遠なものに対する絶望、もしくは、自己自身についての絶望。
 「地上的な或るもの」へ失望していった結果、人間は「地上にあるもの全て」に絶望するようになる。そうすると次に進む。彼は、自分の「弱さ」について絶望するようになる。地上的なものは虚しい、永遠なものこそ手に入れるべき、だと考えているけれど、それでも永遠性に手を伸ばそうとは思わない。彼の「反省」の度合いは世間では珍しい。永遠なものへの憧憬がある。けれども挫折する。自分は弱い。自分の弱さへの絶望。
 昔は、この絶望を、「自らの有限性に気づいた人」のことだと言い換えていた。でも今考えるとそれはキルケゴールと同じことを言っているに過ぎない。自らの有限性に気づけば、永遠なものを志向せざるをえないのだから。

β絶望して、自己自身であろうとする絶望、反抗
 キルケゴールにとって、自己自身になるとは、神を信仰することだけれど、ここでいう自己自身はそういうことではなく、「自分で自分を創り出そうとする人」のことだ。僕は、昔ここにいた。僕が共感した人達も、全てここにいた。
「告白。――僕は最後まで芸術家である。いっさいの芸術を捨てた後に、僕に残された仕事は、人生そのものを芸術とすること、だった——————原口統三」
 まさに神に反抗する絶望である。
「僕の自意識は、思想のルーレットを己の意のままに廻すことができた。だが賭金などに用はなかった。—————原口統三」
 キルケゴールはいう。
「この自己は、まったく思いのままにいつなんどきにも初めから始めることができる、そして一つの思想がどれほど長く追及されるにしても、その行動の全体は仮設の埒内を出ることがない。」
 自己が自己を創る。そういったモチーフの小説もあった。「僕は模造人間」という小説だ。自己の中に分裂した2人が存在していて、自意識が、必然性を食い破る。その小説に、好きな女との性交渉の挿入の直前に、急にオナニーを始めるというシーンがあるんだけれど、これこそまさに、「この自己は、まったく思いのままにいつなんどきにも初めから始めることができる」というキルケゴールの言葉にふさわしい。

 ここまでまとめたけれど、僕は、上から下へ行くほど「頭が良い」し、「こじらせている」と思う。しかし、その先は…?キルケゴールは、この本を教化的であると序文に何度も書いている。「仮設の」自己自身であろうとする絶望は、「真の」自己自身である救済へと、向かうしかないのではないだろうか。

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