人生入門

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
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生命 思想

 ニーチェの侵しがたい真理に思われるところは、全ての思想の根本に「生命」を置いたところだ。僕たちは生きている限り「生命」を持っているので、「生命」を反駁することはできない。ニーチェを論破できるのは、「死者」だけではないのか?
 あらゆる哲学者は弁護士であり、その弁護する真理というのは、「生命」によって見いだされた「道徳」である。反出生主義者の生命の真理というものもあるし、フェミニストの生命の真理というのもあるし、論理実証主義者の生命の真理というのもある。「生きる」ために「真理」をねつ造する。

 だから、「真理」ではなく「真如」をつかみ取る必要がある。「思想」ではなく、「生命」を掴む必要がある。ニーチェは多元論なので、掴み取る生命などないというだろうが、大乗仏教は一元論である。僕も生命は一元的なものであると思う(思う、と書いている時点で「思想」なのか?)。「生命」という根っこから、「主義」という幹が育ち、「思想」という花が開く。一番の根っこの根っこ。命の命はなんなのか?それは「南無阿弥陀仏」である。
南無阿弥陀仏 第4図 第5図

南無阿弥陀仏 第4図 第5図

 禅仏教と分析哲学者が交流している。あまり興味がないので議論は追ってないのだけれど、議論の種になっている本は読んだ。内山興正(澤木興道の弟子)という人の「進みと安らい」という本で、その本に載っているこの第4図と第5図が議論の俎上に載せられている。画像を見てもらえれば分かると思うが、第4図というのは、金や地位を目指して突っ走ったり、主義主張、宗教によって、争う「グループ呆け」が起きている場所だ。内山興正によると、「思い」とは「脳の分泌物」であり、これらの世界は「真実の世界」ではないらしい。

 では何が真実かというと、第五図の、「4図を内包した坐禅する生命」である。ぼくはこの「生命」という言葉を使ったのが、キーだと思う。ニーチェなら「力への意志」というだろうけれど、全ての「行動」や「主義」の「奥」には、「生命」がある。それを自得するのが、禅などの、聖道門である。「坐禅」という「自己ぎりの自己」になる、「無行為」をすることで、「頭の中」から、「生命」へ、落ち着くことができる。「生命」を「無限」と言ってもいい。清沢満之は、聖道門を、自己の中に伏在している無限への種である「仏性」を開花させるものだと言った。
 一方、「生命」から、第4図にいる僕たちへ、恩寵のように無限が降りてくるのが、他力浄土門である。これは、第4図の中にある「グループ呆け」ではない。グループ呆け以前、以上の、「生命」が降りてくる。真如。禅と、浄土門は、「真如」の裏と表である。自分から真如という、「思想以前」の「生命」へ向かっていくのが禅であり、向こうから思想以前の生命が降りてくるのが浄土門である。浄土門へ入った人は、主義や主張に踊らされているままで、生命の御手の上で生きていることになる。

 坐禅や念仏は、他の主義主張を内包している。故に「思想」ではない。それは「生命」である。

欲望 浄土教

 食欲をそのまま肯定している人は、「豚」と揶揄されることがある。性欲をそのまま肯定している人は、「猿」と揶揄されることがある。睡眠欲をそのまま肯定している人は、「牛」と揶揄されることがある。承認欲求、虚栄心、権力欲なども、動物界に見られるものなので「ボス猿」と言ってもいいだろう。
 これらのことから考えるに、「欲望」をそのまま肯定するのは、人間的ではない、と一般的に考えられている。人間は「畜生」以上の高級な存在だから、「欲望」を垂れ流すわけにはいかない。欲望を「垂れ流す」ことを、仏教では「有漏」という。言いえて妙だと思う。欲望が漏れている。悟った人は「無漏」という。
 
 人間は、畜生とは違うので、欲望をそのまま肯定して生きるべきではない。だから仏教という煩悩を滅する営みが生まれたし、キリスト教でも禁欲が説かれたりする。ニーチェみたいな欲望至上主義者は、己の欲望に忠実であれ、キリスト教の道徳に惑わされるな、と言うだろうが、僕の美学として、それは受け入れがたい。僕にとって、「欲望」は「汚い」。

 浄土教は、煩悩を滅するのではなく、それに自覚していく宗教である。ここには一つ否定が挟まっている。欲望を肯定するのではなく、それを「自覚」して、「私は浅ましい」と「反省」するのは、動物性の否定である。親鸞が、「信心を得た者は真の人間になる」みたいなことを言っていたが、そうだと思う。
 仏教的にはみんなバカ(無明)である。せめて、無明に気づこう。無明を反省せずに、突っ切るのは、動物だ。
あさまし あさまし
邪見 憍慢 悪才市
邪見 憍慢 悪才市
あさまし 邪見 憍慢 悪才市
人の物はなんぼでもほしい
とうても とうても ほしい ほしい
ほしいの角が生え
あさまし あさまし あさまし あさま し
邪見者とはこの才市がことよ
この才市には人が恐れております
それに人が知らんと思うております

距離 馬鹿

 自分自身と、どうしようもない距離がある。死ぬまで埋まらないのだと思う。これは「分かる人にはわかるし、分からない人には分からない」ことだとも思う。「分かってる人」には「当り前じゃん」と言われるし、「分からない人」には「意味が分からない」と言われる。そういうたぐいの話。僕はこれを「分かる人」のことを本能的に賢いと思うし、これが「分かる人」は「分からない人」の意識状態も分かっているので、それもプラスだと思う。自分と、距離がある人と、ない人がいる。これは「病気」の話なのかもしれない。「距離があるな」と感じる人は、全員発達障害だから。よくわからんけど、めちゃくちゃ雑な仮説として、「言語性IQ」と「動作性IQ」に差がある人が発達障害なのだけれど、「言語性IQ」が異常に高い人が、「意識の過剰」によって、自己との距離ができている気がする。

 自分と距離があるとはどういうことか?「距離がある」としか言えないと思うけれど、その特徴を挙げることで、輪郭が掴めるかもしれない。
 一つ目のキーワードとしてまあ一番デカいのが、「道化」という言葉だと思う。俳優と、役柄の間には、「距離」がある。僕はこの身体を「プレイ」しているプレイヤーだという感覚がある。この身体や名前が、「僕」ではない。僕とこの身体の間には、無限の距離がある。
 「世界」とも距離がある。僕の場合、世界と距離があるから、世界について問うことをしているのだと思う。僕の姉貴は「明日のことでせいいっぱいだから、何も考える余裕がない」と言っていたけれど、この世界全体と、「距離」があるから、「これは一体なんなんだ?」という疑問が湧いてくる。結果、虚無に沈む。
 他に思いつくのは、自分と同じレイヤーにいる知り合いが2人ぐらいいるんだけれど、異常に「痛い」ということについて、敏感である。僕も敏感だ。痛いという言葉を調べたら、こういう意味らしい。「非常識な様。本人は格好いいと思っているにもかかわらず、客観的にみると非常識であり、そのギャップが痛々しい様。ダウンタウンの松本人志が積極的にこの用法を用いたことから、世間一般に認知され広まったものと言われている。」本人は格好いいと思っているけれど実際にはダサい。「ダサい人がダサい」のは当たり前であって、それは「痛く」はない。「距離がある人」は「距離がない人の意識」も分かっている。距離がない人は、自己と完全に同一化しているので、「格好いいこと」が恥ずかし気もなくできるけれど、「俯瞰」してみると、それが「ダサい」ことが多々あるのだと思う。「本人は格好いいと思っているけれど、客観的にはダサい」ということは、その人は自分を「俯瞰する目」がない、つまり「距離がない」ということだ。だから、距離がある「分かっている人」は、そういう人を「痛い」と感じるセンサーが強く働くのだと思う。自分と距離がなく、自分を見る眼がなく、ナルシスティックに、ズレたことをできる人間のことを、「バカ」という。自分を天才サイコパスと言いながら偏差値の低い大学に通って緩い女とばっかり絡んでいる男は自分と距離がなくて「痛い」し、自分を天才だと信じて疑わず、しょーもない音楽ばっかり作ってる23歳の男も「痛い」。「距離」がないから、「分をわきまえる」ことができない。
 
 その意味で、一番賢かったのは、自分の人生を芸術にしようとしていた原口統三だが、彼は自殺した。「距離のある人間」は、他者や自己を「批評」するロボットになる可能性がある。世界や他者や自己に「問い」を向けまくる、「点」になる可能性がある。それは避けたい。「距離」からくる自己や世界への「懐疑」から抜け出すには・・・?
 

人を馬鹿にする

 友達に、人を馬鹿にするのがよくないと言われた。まあよくないんだろうけど、よくないから面白いんじゃないか?自分のことを天才サイコパスだと自称してる人が、東洋大学に通いながら、頭の弱そうな裏垢女子ばっかり食ってドヤ顔してるギャップが、面白い。イジりがいがある。まあでも僕もそろそろ大人だし、他人を馬鹿にするのもやめないといけないっぽいので、ここで思いっきり他人を馬鹿にして、清算しよう。

 僕が嫌いな人間は、一言でいうと、「頭が悪いのに、自分のことを特別だと思っちゃってる痛いやつ」である。ほとんどの人間は頭が悪いので、「頭が悪いのに」という条件はいらないかもしれない。「自分のことを特別だと思っちゃってる痛い奴」が嫌いである。そいつの無能さと、自意識の具合がズレてて、馬鹿にしがいがある。

 例えば僕は、詩を書く奴が嫌い。「詩ってなんか高級そう。俺は高級な人間だから詩ぐらい書けるだろう」と思って、「それっぽい詩」をツイッターにあげる。すげーキモくね?お前はモブなんだから、お前のオナニー見たくねえから。バカを見ると、胸がむかむかする。僕はもう自分というか、人生というか、「これ」に見切りをつけている。自分が大した人間だとは全く思わない。ポーズではなく、本当に普通の凡人だと思う。

 自分に酔ってる人が嫌いなんだよね。なんか、自分のこと、客観的に見れないのかなあと思う。多分、ほんとに賢い人ってのは、「自分のことを馬鹿にできる人」だと思う。自分に酔いしれて、「俺はすげえ」って言ってる人は、「自分を冷笑する目」を持っていない、直情型の、アホだ。「反省」がない。

 最近読んでる哲学書で、「親しみのある世界」という表現が出てきたけれど、そういう人は、世界に親しいのだと思う。世界と自分の亀裂がないから、裸の、無意味になった世界を見て、己自身を垣間見たことがない。

 人間は全員、卑しくて傲慢でみっともない。それを隠そうともしない、というか、それに気づいていないバカが嫌いだ。精神的に向上心のない者はばかだ。精神的に向上するには、頭を下げて教えをこうしかない。

 太宰治の斜陽に出てくる直治の嫌った思想を持っている、「人間はみな同じだ」と思っている。いい意味でも悪い意味でも、みんな同じだ。みな自己中心的で卑しくて性欲があって糞をして虚栄心がある動物なのに、「高尚」なふりをしたり、「大物」に見せたりするのが、気色悪い。

 友達には、僕は自分の投影をして、このような人間を悪く言っていると言ったけれど、それよりもむしろ、過去の自分を投影してるのだと思う。ゲーテかなんかが言ってたが、人間は、自分の通りすぎた道にいるものの、悪口を言う。

 勘違いバカの周りには勘違いバカが集まって、バカ同士で仲良しごっこをしている。地獄か?薄っぺらいバカ共の群れ。

 多分「浅い人」と「深い人」というのは存在している。キルケゴールがそう言っていたから、そうなんだと思う。浅い人間は、浅いところで浅いことをしていればいいのに、深いふりをしているから滑稽で、馬鹿にしたくなる。

 僕は賢いので「反省」ができる。これを読んだ人は「お前が一番傲慢だろ」と思うだろう。僕は賢い。

物語 計画

 アマゾンで面白い本ないかなあっていろいろ物色してたら、小川洋子って人の「生きるとは、自分の物語をつくること」という本のタイトルが目に入った。僕はそれは違うんじゃないかなあと思った。中身は読んでないけれど。
 「〇〇県生まれ◇◇ ×××」というタイトルの本を作っても、それは「死んだらしまい」だ。本を燃やせば、何も残らない。灰しか残らない。

 やっぱり、「他者」の「物語」のうちに、自分の生きる意味はあるのだと思う。そろそろ母親が死んで1年なのだけれど、昨日久々に鏡を見て、にっこり笑顔を作ったら、口元が母親そっくりだった。母親は「続いてる」んだなあ、と内臓レベルで感じた。「生きるとは 自分の物語をつくること」ではなく、「生きるとは 他者と物語を紡いでいくこと」だと思う。
 では子供を作ったり、他人に影響を与えたり、何か表現を残していない人間は、「物語」を作っていないのだろうか。そうではないと思う。一即一切である。世界は、縁起で、できている。ブラジルにいる蝶の羽ばたきで、こっちで台風が起きるみたいな例えもあるけれど、些細な事でも、世界に「参加」している。

 僕は「物語」という言葉があまり好きではない。なんだか「フィクション」という含意がありそうだから。僕は「計画」という言葉を使う。法蔵菩薩が、凡夫を全員浄土に連れていくという「計画」を建てた。その計画に、参加する。生きるとは 他者の計画に参加すること

主人公

 ネットで、若い人に宗教をやりたくない理由を聞くと、「お金をとられそうだから」とか「神とか仏とかいなさそうだから」と返ってくるけど、根底に「自分の人生を自分が主人公で生きられなくなりそうだから」という感覚があることに気づく。俺の人生は俺の人生であって、神の僕なんぞにはなりたくない、という意志が感じられる。実際に、「浄土真宗の主人公は、凡夫を救う阿弥陀仏であって、自分ではない」という趣旨のことを話したら「じゃあ僕むりだわ」と言われたこともある。
 全然読んだことないんだけれど、チャールズ・テイラーという人によると、そういう近代的ナルシズムはカントの判断力批判から始まって、フーコーあたりまで続くらしい。哲学的なことはよくわからんけれど、「自分の人生の主人公は自分」というのがなんの根拠もないイデオロギーだということは分かる。なぜなら相対的だから。「主君のために討ち死にする武士」「亭主のために尽くす妻」「国のために死ぬ兵士」「神のために殉死する聖者」など、この「身体」や「人生」を、「他者」のために使っている時代や、文化がいくつもある。僕はいきすぎた個人主義には反対である。この国家や神といった「他者」から、解放される「自由」への物語が、近代の喜ばしい成果だと言われているけれど、弊害もかなり見られる。
 この「自分の人生の主人公は自分」というイデオロギーのせいで、苦しんでいる人を何人も見てきた。「俺はこんな場所にいるべき人間じゃないのに」「自分が世界の中心なのにこんな不細工ありえない」「俺には才能がある、俺は天才だ→失敗→メンヘラ化」
 主人公は誰なのか?多分、僕は主人公ではないと思う。昔はそう思ってた時期もあった。けれど、僕には音楽の才能もないし、文章の才能もないし、商才もないし、なにもできないので、無能は無能らしく、人には極力迷惑をかけず、エピクロスが言った「静かに生きよ」を実行している。世界の中心にいる人なんて、だれ一人おらず、みんなモブキャラなのだと思う。メンヘラのバカでかい要因の一つの「自己肯定感の低さ」は、ナルシシズムの裏返しだ。「私は世界の中心のはずなのに、不細工だし、運命の人から捨てられるし、何も上手くいかない」
 世界の中心は、自分ではない。誰でもない。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

生産性 働けない人

 中学生の時に、「エネルギー保存の法則」というのを習った。宇宙のエネルギーは、運動や変化はすることがあっても、常に全く同じで、減ったり増えたりするものはないらしい。ということは、「生産」することができるのは、神以外にありえない。人間にできるのは、「加工」だけだ。

 昨日友達と若干喧嘩っぽい感じになった。その人は躁鬱でボーダーで発達障害で、障害年金と親の金で暮らしているのだけれど、その暮らしがどうしても嫌で、自立したいらしい。社会に出て人のためになりたいっぽい。でも働くたびに、病状が悪化して、すぐやめている。彼氏にも働かなくていいって言われてるらしいし、僕も、働かなくていいんじゃないかなあと思う。でもあんまり「甘え」たくないらしい。

 僕は、「働かない人」は凄いと思う。今の日本、働かないで暮らそうと思えば暮らせる。精神科医に適当にうつ病の診断書貰って、生活保護申請すれば、生きていける。でもなぜみんなそれをしないのかと言えば「退屈」や「孤独」が怖いからだ。退屈になれば、世界の虚無性がありありと見えるし、孤独になれば、自分の存在価値が分からなくなる。
 働いてる人は「俺たちのおかげで社会が回ってる」的な説教をしてくることが多いが、その人たちも「みんなが働いてるから働いてる」に過ぎないと思う。僕も、障害で高校を中退せずに、そのまま大学を卒業していれば、「周りに合わせて」働いていたと思う。

 働かない人は、「退屈」から訪れる「虚無感」にも負けず、「孤独」からくる「他者からの承認不足」に耐え、周りに流されない、すごい人なのだ。だから、働けない人は働かなくていいと思う。生活保護でもなんでも貰ったらいい。生産活動をしない人は、生産活動をする人からゴミを見るような目で見られる。退屈ニモ負ケズ、孤独ニモ負ケズ、ヒキコモッテ、ヒトカラミクダサレル。ソウイフヒトニ、ナッテシマッタ。

 「生産性」というのは幻想だと思う。禅仏教の一部を除いて、仏教の修行者たちは、生産活動というものをしない。それは、この世が「無常」だからだ。どうせみんな死ぬからだ。人生というものはゼロ=ゼロであり、生産性のあるものなど何もない。価値のあるものなどこの娑婆世界には何もないので、出家者たちは、何も作らずに、修行に専心する。

 労働は尊い。それはそう。なぜ?「人の幸福に寄与しているから」。労働しない人も尊い。僕のその友達は生きているだけで、恋人や、家族や、僕の「幸福に寄与している」。僕は、このクソみたいな娑婆世界で、唯一尊いのは、人の幸福に寄与することだと思う。労働だけが、その方法ではない。「生きてるだけで、丸儲け」という言葉は、その人のそばにいる他人が丸儲けなのかもしれないね。

 

宗教は盲目的か?

 信仰をしたい、とブログに書いてる人に「なんでしないんですか?」と聞いたら「盲目的になるのが怖い」と言われた。僕は盲目的になってるんだろうか?
 とりあえず、自分の信仰している真宗で考える。真宗では、「自力の心を捨てる」とよく言われる。「はからいを捨てる」ともよく言われる。何に対して?「弥陀の本願」に対してである。「法蔵菩薩という菩薩が、めちゃくちゃ修行して阿弥陀仏になり、南無阿弥陀仏となって自分の口から自分を呼んでいる」ということについての、「はからい」を捨てる。これについては、盲目的と言えるかもしれない。これについて批判しようと思えば、いくらでもすることができるからだ。(科学的に証明できない、大乗は非仏説だ、おとぎ話っぽい…。)これらの批判心、はからい心を捨てて、これらの批判に「目を瞑る」のが、信心ということだ。盲目的と謗られても仕方ないかもしれない。けれど、これ以外にも盲目的なことはたくさんある。例えば、科学に盲目。哲学に盲目。恋人に盲目。国家に盲目、自分に盲目。科学、哲学、恋人、国家、自分、は「正しい」。
 浄土真宗は、極力この「盲目性」を消そうとしているようにも思う。確かに、弥陀の本願などについて「批判」を持つことは許されないが、「積極的」に、弥陀の本願を確信するということがない。真宗は、「確信」ではなく、「無疑」である。反出生主義などは、それを正しいと「盲目的」に「確信」しているけれど、真宗の場合は、本願に「疑いがない」だけである。「南無阿弥陀仏を称えれば救われる」というただ一点に、疑いがないだけである。僕はこの辺が、さすが仏教だな、と思う。「自己主張」がない。真宗は、他の法華宗などと比べて、欧米であまりふるってないらしいが、この「確信ではなく、無疑、故に自己主張がない」というところが、欧米人にあまり浸透しない理由だと思う。
 念仏すれば死んで極楽に行ける。阿弥陀仏が死ぬまでよりそってくれる。ただそれだけ。日本の若い人の宗教嫌いな理由は、僕の感じるところ、「自分の主体性がなくなりそう、人生の主人公になれなくなりそう」というところにあるけれど、全くそんなことはないと思う。僕は僕である。神とか仏とか、よくわからん見えないものに自分の人生を捧げてるわけでもないし、時間がめちゃくちゃとられているわけでもない。逆に、阿弥陀仏は僕の人生をただ応援してくれているだけにも思える。絶対味方をしてくれる親が一人増えるだけだ。

 僕は新興宗教をウォッチするのが好きでよく見ているけれど、新興宗教などは、「人生」そのものを布施している感があるので、盲目的だなあとは思う。お金にがめつい、声がでかい、布教させたがる、この辺は人生を吸い取られるのでそういう宗教はやめた方がいいと思う。

 宗教に、生き方を邪魔されるのが嫌なのだと思う。念仏者はどう生きたらいいのか?法然上人は「念仏申さるるように生きよ」と言っている。共産主義になっても親を殺してもフェミニストになっても犯罪をしても慈善事業してもいい。念仏申さるるように生きよ
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