距離 馬鹿 | 人生入門

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

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再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

距離 馬鹿

 自分自身と、どうしようもない距離がある。死ぬまで埋まらないのだと思う。これは「分かる人にはわかるし、分からない人には分からない」ことだとも思う。「分かってる人」には「当り前じゃん」と言われるし、「分からない人」には「意味が分からない」と言われる。そういうたぐいの話。僕はこれを「分かる人」のことを本能的に賢いと思うし、これが「分かる人」は「分からない人」の意識状態も分かっているので、それもプラスだと思う。自分と、距離がある人と、ない人がいる。これは「病気」の話なのかもしれない。「距離があるな」と感じる人は、全員発達障害だから。よくわからんけど、めちゃくちゃ雑な仮説として、「言語性IQ」と「動作性IQ」に差がある人が発達障害なのだけれど、「言語性IQ」が異常に高い人が、「意識の過剰」によって、自己との距離ができている気がする。

 自分と距離があるとはどういうことか?「距離がある」としか言えないと思うけれど、その特徴を挙げることで、輪郭が掴めるかもしれない。
 一つ目のキーワードとしてまあ一番デカいのが、「道化」という言葉だと思う。俳優と、役柄の間には、「距離」がある。僕はこの身体を「プレイ」しているプレイヤーだという感覚がある。この身体や名前が、「僕」ではない。僕とこの身体の間には、無限の距離がある。
 「世界」とも距離がある。僕の場合、世界と距離があるから、世界について問うことをしているのだと思う。僕の姉貴は「明日のことでせいいっぱいだから、何も考える余裕がない」と言っていたけれど、この世界全体と、「距離」があるから、「これは一体なんなんだ?」という疑問が湧いてくる。結果、虚無に沈む。
 他に思いつくのは、自分と同じレイヤーにいる知り合いが2人ぐらいいるんだけれど、異常に「痛い」ということについて、敏感である。僕も敏感だ。痛いという言葉を調べたら、こういう意味らしい。「非常識な様。本人は格好いいと思っているにもかかわらず、客観的にみると非常識であり、そのギャップが痛々しい様。ダウンタウンの松本人志が積極的にこの用法を用いたことから、世間一般に認知され広まったものと言われている。」本人は格好いいと思っているけれど実際にはダサい。「ダサい人がダサい」のは当たり前であって、それは「痛く」はない。「距離がある人」は「距離がない人の意識」も分かっている。距離がない人は、自己と完全に同一化しているので、「格好いいこと」が恥ずかし気もなくできるけれど、「俯瞰」してみると、それが「ダサい」ことが多々あるのだと思う。「本人は格好いいと思っているけれど、客観的にはダサい」ということは、その人は自分を「俯瞰する目」がない、つまり「距離がない」ということだ。だから、距離がある「分かっている人」は、そういう人を「痛い」と感じるセンサーが強く働くのだと思う。自分と距離がなく、自分を見る眼がなく、ナルシスティックに、ズレたことをできる人間のことを、「バカ」という。自分を天才サイコパスと言いながら偏差値の低い大学に通って緩い女とばっかり絡んでいる男は自分と距離がなくて「痛い」し、自分を天才だと信じて疑わず、しょーもない音楽ばっかり作ってる23歳の男も「痛い」。「距離」がないから、「分をわきまえる」ことができない。
 
 その意味で、一番賢かったのは、自分の人生を芸術にしようとしていた原口統三だが、彼は自殺した。「距離のある人間」は、他者や自己を「批評」するロボットになる可能性がある。世界や他者や自己に「問い」を向けまくる、「点」になる可能性がある。それは避けたい。「距離」からくる自己や世界への「懐疑」から抜け出すには・・・?
 

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