欲望 浄土教
食欲をそのまま肯定している人は、「豚」と揶揄されることがある。性欲をそのまま肯定している人は、「猿」と揶揄されることがある。睡眠欲をそのまま肯定している人は、「牛」と揶揄されることがある。承認欲求、虚栄心、権力欲なども、動物界に見られるものなので「ボス猿」と言ってもいいだろう。
これらのことから考えるに、「欲望」をそのまま肯定するのは、人間的ではない、と一般的に考えられている。人間は「畜生」以上の高級な存在だから、「欲望」を垂れ流すわけにはいかない。欲望を「垂れ流す」ことを、仏教では「有漏」という。言いえて妙だと思う。欲望が漏れている。悟った人は「無漏」という。
人間は、畜生とは違うので、欲望をそのまま肯定して生きるべきではない。だから仏教という煩悩を滅する営みが生まれたし、キリスト教でも禁欲が説かれたりする。ニーチェみたいな欲望至上主義者は、己の欲望に忠実であれ、キリスト教の道徳に惑わされるな、と言うだろうが、僕の美学として、それは受け入れがたい。僕にとって、「欲望」は「汚い」。
浄土教は、煩悩を滅するのではなく、それに自覚していく宗教である。ここには一つ否定が挟まっている。欲望を肯定するのではなく、それを「自覚」して、「私は浅ましい」と「反省」するのは、動物性の否定である。親鸞が、「信心を得た者は真の人間になる」みたいなことを言っていたが、そうだと思う。
仏教的にはみんなバカ(無明)である。せめて、無明に気づこう。無明を反省せずに、突っ切るのは、動物だ。
これらのことから考えるに、「欲望」をそのまま肯定するのは、人間的ではない、と一般的に考えられている。人間は「畜生」以上の高級な存在だから、「欲望」を垂れ流すわけにはいかない。欲望を「垂れ流す」ことを、仏教では「有漏」という。言いえて妙だと思う。欲望が漏れている。悟った人は「無漏」という。
人間は、畜生とは違うので、欲望をそのまま肯定して生きるべきではない。だから仏教という煩悩を滅する営みが生まれたし、キリスト教でも禁欲が説かれたりする。ニーチェみたいな欲望至上主義者は、己の欲望に忠実であれ、キリスト教の道徳に惑わされるな、と言うだろうが、僕の美学として、それは受け入れがたい。僕にとって、「欲望」は「汚い」。
浄土教は、煩悩を滅するのではなく、それに自覚していく宗教である。ここには一つ否定が挟まっている。欲望を肯定するのではなく、それを「自覚」して、「私は浅ましい」と「反省」するのは、動物性の否定である。親鸞が、「信心を得た者は真の人間になる」みたいなことを言っていたが、そうだと思う。
仏教的にはみんなバカ(無明)である。せめて、無明に気づこう。無明を反省せずに、突っ切るのは、動物だ。
あさまし あさまし
邪見 憍慢 悪才市
邪見 憍慢 悪才市
あさまし 邪見 憍慢 悪才市
人の物はなんぼでもほしい
とうても とうても ほしい ほしい
ほしいの角が生え
あさまし あさまし あさまし あさま し
邪見者とはこの才市がことよ
この才市には人が恐れております
それに人が知らんと思うております
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