禅仏教と分析哲学者が交流している。あまり興味がないので議論は追ってないのだけれど、議論の種になっている本は読んだ。内山興正(澤木興道の弟子)という人の「進みと安らい」という本で、その本に載っているこの第4図と第5図が議論の俎上に載せられている。画像を見てもらえれば分かると思うが、第4図というのは、金や地位を目指して突っ走ったり、主義主張、宗教によって、争う「グループ呆け」が起きている場所だ。内山興正によると、「思い」とは「脳の分泌物」であり、これらの世界は「真実の世界」ではないらしい。
では何が真実かというと、第五図の、「4図を内包した坐禅する生命」である。ぼくはこの「生命」という言葉を使ったのが、キーだと思う。ニーチェなら「力への意志」というだろうけれど、全ての「行動」や「主義」の「奥」には、「生命」がある。それを自得するのが、禅などの、聖道門である。「坐禅」という「自己ぎりの自己」になる、「無行為」をすることで、「頭の中」から、「生命」へ、落ち着くことができる。「生命」を「無限」と言ってもいい。清沢満之は、聖道門を、自己の中に伏在している無限への種である「仏性」を開花させるものだと言った。
一方、「生命」から、第4図にいる僕たちへ、恩寵のように無限が降りてくるのが、他力浄土門である。これは、第4図の中にある「グループ呆け」ではない。グループ呆け以前、以上の、「生命」が降りてくる。真如。禅と、浄土門は、「真如」の裏と表である。自分から真如という、「思想以前」の「生命」へ向かっていくのが禅であり、向こうから思想以前の生命が降りてくるのが浄土門である。浄土門へ入った人は、主義や主張に踊らされているままで、生命の御手の上で生きていることになる。
坐禅や念仏は、他の主義主張を内包している。故に「思想」ではない。それは「生命」である。
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