生命 思想
ニーチェの侵しがたい真理に思われるところは、全ての思想の根本に「生命」を置いたところだ。僕たちは生きている限り「生命」を持っているので、「生命」を反駁することはできない。ニーチェを論破できるのは、「死者」だけではないのか?
あらゆる哲学者は弁護士であり、その弁護する真理というのは、「生命」によって見いだされた「道徳」である。反出生主義者の生命の真理というものもあるし、フェミニストの生命の真理というのもあるし、論理実証主義者の生命の真理というのもある。「生きる」ために「真理」をねつ造する。
だから、「真理」ではなく「真如」をつかみ取る必要がある。「思想」ではなく、「生命」を掴む必要がある。ニーチェは多元論なので、掴み取る生命などないというだろうが、大乗仏教は一元論である。僕も生命は一元的なものであると思う(思う、と書いている時点で「思想」なのか?)。「生命」という根っこから、「主義」という幹が育ち、「思想」という花が開く。一番の根っこの根っこ。命の命はなんなのか?それは「南無阿弥陀仏」である。
あらゆる哲学者は弁護士であり、その弁護する真理というのは、「生命」によって見いだされた「道徳」である。反出生主義者の生命の真理というものもあるし、フェミニストの生命の真理というのもあるし、論理実証主義者の生命の真理というのもある。「生きる」ために「真理」をねつ造する。
だから、「真理」ではなく「真如」をつかみ取る必要がある。「思想」ではなく、「生命」を掴む必要がある。ニーチェは多元論なので、掴み取る生命などないというだろうが、大乗仏教は一元論である。僕も生命は一元的なものであると思う(思う、と書いている時点で「思想」なのか?)。「生命」という根っこから、「主義」という幹が育ち、「思想」という花が開く。一番の根っこの根っこ。命の命はなんなのか?それは「南無阿弥陀仏」である。
コメントを書く...
Comments