人生入門

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哲学書読書計画
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丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

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再来年中に読むもの
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否定性 ズレ 笑い

 ジョルジュ・バタイユは「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」と言った。その唯一の例外が人間である。
 「笑う動物」は人間だけである。そして、「笑いとは裏切り」とよく言われる。横を歩いてた友人が、急にバナナの皮で滑って転んだら、それは「笑い」になる。「横を歩く」という自明性に、「裏切り(否定性)」の亀裂が入ってしまったから。
 全てのことは、「笑う」ことができる。「否定性」とは「ズレ」である。熱心なフェミニストをみんなで笑う。それは、「動機」と「主張」が「ズレ」を起こしすぎていて、滑稽だからだ。ゴドーを待ちながらの「パロディ」の劇をする。パロディとは、オリジナルとの「ズレ」を笑うことだ。季節外れの蝉の鳴き声を聞いて、微笑む。それは、季節と蝉の声が「ズレ」ているからだ。
 世界と「ズレ」ている人間は、世界を笑うことができる。それは冷笑家に繋がるかもしれないし、ニーチェ的な大いなる笑いに繋がるかもしれない。人間という動物は、「対象」を創り出すことによって、それと共に「ズレ」「裏切り」「否定性」を世界に招き入れてしまった。
 世界とズレている人間の独白。「まったくあいつら、生きる意味なんて何もないのに、何を必死に革命だの労働だのしているんだ。全くバカバカしい。」
 「否定性」が極限にまで膨れ上がった結果、「世界の否定そのもの」と「世界」の「ズレ」を、笑うようになる人がいる。こいつは、世界の高みにたっているようで、実際は底抜けの深淵に落ちながら、地獄の窯の上で、笑っている。

 松本人志が、「笑うことは人間にだけ許された特権や」と言っていたが、その笑いは、絶望の乾いた笑いにしかならない可能性がある。笑いとは無の分泌に他ならない。笑いと虚無は双子である。

 人生笑って生きて、それでおしまい、という世界に生きるか、絶対に笑えない物を探すかどうかは、面々の御計らいである。

祈りという孤独さ 鐘

 稲城選恵和上が常に強調されているところによると、浄土真宗には「祈り」がない。祈りとはなんなのか?稲城選恵和上によると、「神様は寝ている」らしい。神社に行くと、お賽銭箱の上に、がらんごろんと鳴らす、「鐘」がついている。人間は、神様に何かを祈るとき、あの「鐘」によって、神様を「起こす」。神様は、「鐘」が鳴るまで寝ていて、それから人間の「祈り」を聞く。そして「祈り」が届くかどうかは、分からない。神様が全て願いを叶えるならば、僕の母親は死ななかったはずだ。
 浄土宗の西山派にも、この「鐘的要素」がある。西山派では、浄土真宗と違って、「南無阿弥陀仏」が、母を呼ぶ、子の声であると解釈されている。だからこれは、「祈り」である。神社にある「鐘」となんら変わりない。祈りが届く保証は、ない。

 レヴィナスの解説書を読んでいて、「全ての言葉は祈りである」という文章に出会った。これは大変なことを言っているな、と思った。僕なりに咀嚼してみる。
 僕は、言葉のことをよく「鳴き声」という。それは、全ての言葉には行為遂行的な次元があると思っているからだ。「この人と結婚します」というのはその言葉によって行為が遂行されているけれど、僕は全ての言葉はこの行為遂行的、パフォーマティブな次元を持っていると思う。「ここは僕が奢るよ(だから今度SEXをさせてくれ)」「危ない!(よけて!)」「この前こんな面白い話があってね…。(俺を面白いと思ってくれ)」「ブスすぎて死にたい(そんなことないよって言って)」このように、全ての言葉には、「祈り」がある。分かりやすく言い換えると、言葉は、「他者」という神様を動かそうとする「鐘」である。そして、その祈りが届くかどうかは保証がない。絶対的に所有できない、僕たちから無限に隔たっている他者は、僕たちが言葉で「鐘をつく」まで、寝ている。そして、女にご飯を奢っても、ホテルに行ってもらえる確証はない。
 「独生独死独去独来」という言葉の深い意味は、「他者に祈りが通じない」ということではないんだろうか。

 絶対的に自己から隔たっている他者に、「祈り」を捧げても、それは聞き受けられるか分からない。
 一番自己に近い場所から、「助けるから、私の名前を称えてくれ」と僕たちに祈っているのが、阿弥陀仏なのだった。「祈る存在」は、孤独である。相手は「寝ている」から。「祈る主体」から「祈られる客体」になったとき、孤独は、癒えるのだろう。

夜風

 夜の風は、少し冷たいけど、優しい。それは、星が見ているからだと思う。初夏のぬるい風とも違って、5月の夜風は、清涼感があって、心地よい。それは、月が見ているからだと思う。
 自動販売機に、コカ・コーラを買いに外に出る。気の弱い女の視線のような風が、僕を撫ぜる。もうこうなれば、全身が淡い性感帯だ。気持ちいい。気持ちいい。気持ちいい。生まれてきてよかった。

優生思想 比較 競争

 自然世界は、弱肉強食であるから、「優生思想」は人間社会に根強いものらしい。僕たちが動物を食べるのも、動物より人間が「優れている」からだし、徒競走で1位の人が表彰されるのも、その人が「優れている」からだし、アイフォンの6Sより最新版のほうがいいのも最新版のほうが「優れている」からだ。
 僕は、「優生思想」という名称よりも「比較思想」「競争思想」と言ったほうが、本質を表していると思う。「優れている」というのは、優/劣という二項対立の上で成り立つ概念でしかないから。
 これは人には言ったことがないし、今ここで初めて人に披露するんだけれど、僕は小学校の頃、「体育できる人って、それだけで勉強できる人より明らかな優越があるのに、なぜ学校は勉強にウェイトを置くんだろう」という素朴な疑問を持っていた。大学を出てホワイトワーカーになったほうが勝ち組になれるとかそういうのは一切知らなかったから、本当に純粋に「勉強>体育」なのが意味が分からなかった。体も心も優劣はないのだから、体育を一つの「科目」に押し込めるのはおかしいと思った。
 戦争の時代の手記などを読んだり、そういった時代のお坊さんの法話を聞くと、戦時中は「体>知」だったことが分かる。身体に病気を持っている非国民が、強い劣等感を持っていたという話をよく聞く。
 他の時代、他の地域では、と例示していけば、「優/劣」の区別を相対化することはいくらでも可能だろう。現代の先進国では創造力、知性、金を稼ぐ能力が「優秀」だとされている。アボリジニにはそんなもん必要ないだろう。必要なのは「パワー」だけだ。優/劣というのは文化に相対的なものだ。

 もう1回「比較思想」というところから考えよう。

 人には「差」がある。それはそう。「差」があるから、「比較」することができる。それもそう。優れている人と、劣っている人がいる。そうか? 
 動物社会には「差」がある。だから強いものが弱いものを殺す。そこには冷徹な論理がある。ただ、人間は動物じゃない。
 キリスト教の格率。「汝の隣人を愛せよ」仏教の格率「生きとし生けるものが幸福でありますように」フランス革命の原理「自由・平等・友愛」
 たしかに、偏差値で「差」がつく社会になっている。社会構造は、冷徹かもしれない。そこは変えていかなきゃいけない部分だし、これから変わる部分だとも思う。ただ僕たち「人間」の「心」まで冷徹になる必要はないんじゃないか。偏差値で「比較」をして、「劣ってる人」を糾弾するのは、動物の世界の論理じゃないのか。蛙を丸のみにする蛇の論理じゃないのか。

 「差」はある。仏教では「差別」とか「分別」という。この「差別」を「見る心」をなくす境地を「無分別智」という。いわゆる悟りだ。「さとり」とは「差取り」だと上手いことを言った人もいる。そういう「差」で優/劣をつけないことが、宗教的な一つの達成点だとされている。これは修行した人たちだけの特権ではなく、キリスト教の神は信じたものを全員平等に愛するし、阿弥陀仏は全ての人間を仏の子だと断言している。東大に入れる人と、入れない人は「差」がある。ただ、それで「差別」をする、卑しい心根を抜本的に改革する「論理」というのも、人間の営みの中で営々と続けられてきた。「差」を、ネガティブに扱って差別をするか、差などを超越した思想や営みに参加して、そういった心を得るか、僕は後者のほうが豊かな人生を送れると思うが、人を見下すのが好きな人は、好きにしたらいいと思う。それはもう、面々の御計らい(歎異抄2条)である。

 ご承知のように、インドにはえぐい差別思想がある。4つの生まれによって、人間の「価値」が決まる。ヒンドゥー教は「ニティア(恒常性)」を尊んでいて、そのヒエラルキーが、いつまでも永遠に続くことを望んでいる。しかし、一番下にいる不可触民はたまったものじゃない。だから、ブッダはニティアの反対の、「アニッチャ(無常)」を希望にした。優生思想というのも、差別というのも、このニティアとアニッチャの闘争と言える気がする。自分が一生勝ち組だと思っている「ニティア」を持っているのが、優生思想。それに反旗を翻す「アニッチャ(無常)」の民がいる。ニティアは、宗教的な観念である。アニッチャは、リアルな現実である。アニッチャを無常と言ってもいいし、偶然性と言ってもいい。「おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。」「アニッチャ」という「現実」の前では、ニティアという宗教的観念を持っている人も、持っていない人も、誰しも平等である。 
 「差」がニティア(恒常)だと思っている宗教者と、そんなものは幻想だと喝破した人間たちの闘争が繰り広げられてきて、現在も続いているのだと思う。勝ち組というニティア。健常者というニティア。エリートというニティア。アニッチャ側のほうは、無常を原理として、「絶対無差別」や「弥陀の慈悲」という思想原理も組み立てた。仏教は差別との闘いと言ってもいい。ヒンドゥー教的に生きるか、仏教的に生きるか。戦いは続く。
to be continued...

科学主義に抗して

 現代の科学主義は、いうまでもなくデカルトの物心二元論から端を発している。私はポストモダンという名称は間違いであり、勝手にモダンを終わらせてくれるなと常々思っている。デカルトの物心二元論が、現代脳科学の旗手であるアントニオ・R・ダマシオ とスピノザが共鳴しているように心身平行二元論なのか、ラ・メトリーのような極端な人間機械論、どっちに進むのかはおいといて、「物質」が基底に置かれているのは間違いない。マルクス的な史的唯物論はソ連の崩壊と共に崩壊を迎えたが、古くはデモクリトス、エピクロス(マルクスがエピクロスの論文を書いてたのは有名だが)まで遡る、物質主義が現代の空気を作っているのは確かである。
 ここではデカルトをモデルとするが、デカルトのいう物質とは「延長」のことである。長さがあるものが物質であり、それが生命を構成している。脳科学者の池谷裕二も、物質主義の立場において、自由意志はないだろうと発言しているし、同じく脳科学者であるデイヴィッド イーグルマンは、「自由意志はない、故に犯罪者に犯罪責任はない。」という啓蒙活動まで行っている。まさに科学の名において「責任という虚構」という概念が構築されている。
 私はこのデカルト主義に抗するための思想としては、現象学的実存主義が、一番有力であると思う。フッサールの生活世界論、ハイデガーの手元存在理論、サルトルの完全自由論。ここでは主著の存在と時間において、明確にデカルト批判をしているハイデガーの主張を見てみよう。
 ハイデガーは(おそらく師のフッサールの生活世界論を受ける形で)手元存在という概念を編み出した。例えば、ここにハンマーがあるとする。虚心坦懐にその場面を想像してほしい。その場合、ハンマーの化学的成分などに、気持ちが向くことがあるだろうか?そうではなく、そのハンマーの「くぎを打つ」という道具的意義に目が行くだろう。目が行くというのも正確ではない。すでにそのようにとらえる世界に「生きてしまっている」という表現のほうが正しい。ハイデガーは、そのような「生きられた世界」を手元存在と呼び、デカルトのような「手前存在」は、逆にその派生態だと看破する。
 サルトルも、そもそもデカルト的な「コギト」を認めていない。コギトは「対自的」な存在である。対自的である故に、「存在減圧」が起こり、「必然性」が崩壊する。ここに自由がある。
 科学の方法、現象学の方法、どちらが根源的かと言えば、現象学のほうに軍配があがる。少なくとも、フッサールやハイデガーはそう考えていた。フッサールは現象学が諸科学の基礎になるべきだと考えていたし、ハイデガーは諸科学は存在論が基礎づけるべきだと考えていた。
 ボン大学教授のマルクス・ガブリエルが言うように、デカルトから端を発する「ニューロン主義」や「過激ダーウィニズム」は、人間の尊厳を奪う可能性がある。私たちは、科学を謳歌する前に、もう一度20世紀の思想家たちの死闘を、振り返るべきではないか。
何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ

何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ

 16歳のときに、ボードリヤールの「消費社会の神話と構造」を読んだ。当時のフランスの事情とかは分からなかったけど、骨子は非常に簡単で、全ての消費が「記号的消費」になってしまったということだ。「使用的価値」例えば寒さをしのぐために服を着たり、サバイバルするために本を読むという価値は奥へ引き下がって、「記号的価値」即ち、服や本を自分はこういう人間だ、という「記号」にするために消費がなされるようになった。見せびらかし消費というと分かりやすい。
 中学生の時に、某アイドルグループが熱烈に好きな女子のグループがいたんだけれど、僕は冷ややかな目で「アイドルが好きな自分が好きなんでしょ」と友達に言っていた。僕はこれは今でも当たっていると思う。ネットでできた男友達がいて、そいつはアイドル声優のおっかけで大学を中退したんだけれど、中退した数年後に、「オタクをアイデンティティにしていた」と言っていた。「そんなもん当り前だろ…」と思った。

 中学生のときに、添付している画像を見て、意味が分からなかった。「何が好きか」というのは「ファッション」でしかない。僕の場合は哲学と仏教がアイデンティティでありファッションであるんだろうけれど、「哲学と仏教が好き」と言ったところで、僕の見せびらかし的消費が行われているにすぎない。僕は「自分」を語ることなど不可能だと思う。自己紹介にした途端、それは「ファッション」になってしまう。僕が信じるのは、沈黙の行動、もしくは「文体」である。

 これは現代病なのか、人間の宿痾なのか知らない。僕は虚栄心という人間の抜きがたい原罪であるように思う。僕が見せびらかし的消費をしていることは間違いない。これは、人間の「病気」であるから仕方がない。せめて、自覚的になりたいと強く思う。そして、そういう病気を持った自分も他人も、赦せるような人間になりたい。

僕が哲学をしている理由

 最近はもっぱら、ハイデガーとニーチェばかり読んでいる。二人とも死ぬほどビッグネームなので、やはり面白い。ハイデガーの実存論的分析は、大衆批判や宗教的覚醒が語られていて興味深いし、ニーチェからは、意地の悪い眼光を学ぶことができる。

 今日、自分がなんで哲学してるんだろうと、ふと考えたら、多分「失望」したいからだろうなと思った。もちろん新しい概念を学ぶのは楽しいし、哲学書を読んで視野が広がるのも面白いけれど、哲学書を読み終わったあとの、「で、結局人間は死ぬけど、どうしてくれるの?」という失望が欲しいんだと思う。僕は、哲学にだけは少し期待しているふしがある。16歳の頃からずっと生きる意味を探して西洋哲学を学んで、結局見つからなくて仏教へ行ったけれど、やっぱり情があるんだと思う。
 
 「哲学って、しょうもないな」っていつも思う。そう思うために読んでる。僕は失望フェチだから。

 哲学とか文学って、結局娯楽だと思う。知性や感情を言葉で遊んでるに過ぎない。奥の奥、生命の本能のまるだしは、やっぱり宗教だなあとおもう。

茶番 嘲弄

 昔のブログを数年ぶりに見返すと、何もかも「ごっこ」にしか感じられないと書いてあった。学校は特にそう。文化祭で女子が自己陶酔してるときも馬鹿じゃないのかと思ったし、高1のとき陽キャがクラスメイトから金を徴収して担任に花束を渡そうと言ったときも、アホらしくて一銭も出さなかった。全部茶番に思える。笑える。嘲弄できる。昔のブログに書いていた短文「最も荘厳な場面で、卑猥な言葉を絶叫すること。これが自意識である。」
 
 全知全能の神がいるのならば、恐らくずっと笑っているだろう。なんでも知っていて、なんでも可能なのだから、面白くてたまらないに違いない。人間という醜い動物を作って、それを観察している。暇つぶしに作って、笑いながら見てるんだろう。僕は、意識の上で同じことをしていた。
「「考えるとは表現することである」現代の百科辞典にはこう書いてあるそうだ。
 表現はどんな風にでもあり、したがってどんな考え方だって存在しうる。
 思索とは表現の可能性に対して行なわれる精神の賭博である。
 僕の自意識は、思想のルーレットを己の意のままに廻すことができた。だが賭金などに用はなかった。」
 世界から距離のある意識は、世界をどのように「解釈」するかは自由だ。世界にどのような意味を付与するか、自由だ。完全な自由故に、世界には何も決まった「価値」がない。世界は僕の自意識次第で、なんとでもなる。世界に一途に意味を張り付けて没入するのではなく、「一歩引いて」世界を嘲弄する。冷笑家は、虚しい。葬式や恋の睦言の最中に笑うこと。僕は笑うことが、世界で遊ぶことだと思っていた。けれど、全てを笑えるということは、自分の足場まで笑ってしまう。深淵に落ちながら、笑っているのは幸福だろうか。

 「絶対に笑えないもの」を世界に導入すること。「全てを嘲弄する」という根無し草に、「留め金」ができる。一つ留め金ができると、人生に、姿勢ができると思う。僕の場合、絶対に笑えないものは、南無阿弥陀仏だった。

懐疑

 懐疑主義は、負けることがない。全ては「疑う」ことができる。「疑う」とは「上に立って」「評価」することだ。現代人にクリシュナムルティという宗教家がウケているのも、この辺の事情であると思う。クリシュナムルティは、「私は何も信じない」という本を出しているように、何かを信じろとは言わない。ただひたすら疑って、自分の思考や感覚を「見ろ」と言っている。非常に現代のインテリに受けそうな教説である。
 懐疑主義はもともと、明朗に生きるための方法だった。ピュロンという人が懐疑主義を創始したが、ピュロンという人は、何事においても「判断停止」をして、安らかな人生を送ったらしい。古代人にとって、「疑う」とは「判断停止」することであって、要は「確実なことなんか何もないということだけは確実なのだから、判断を停止して生きよう」という格率だった。

 現代人の懐疑は違う。現代人の懐疑は、そのまま「寄る辺なさ」に直結している。仏教の中の6煩悩に「疑」があるように、本来「疑」というのは「つらい」。テーラワーダ仏教によると、修行によって、預流果という境地まで達すれば、「疑」という煩悩は消えるらしい。つまり、「お釈迦様はそういうてるけど、ほんまにこんな修行しててええんかなあ」という思いが消えるらしい。これはクリシュナムルティと同じように、修行や観察といった「経験」に立脚して「疑」を消す方法だ。僕はこの境地がめちゃくちゃ羨ましい。100%「疑」のない境地。地に足がついている。根っこがある。

 信仰は、全く別のアプローチをする。経験や理性というものを頼らずに、直接「疑」をなくす。信仰が深まってくると、もはや「浄土」のほうが「現実」に思えてきて、娑婆世界は「夢」のように思えるようになる人も多いらしい。浄土という根っこがある人は、幸せだ。

 僕は、現代人の懐疑は不幸であると思う。100%信じられるもの。フロイトなどが証明したように、「自分」というのも信じられたものではない。「懐疑」がなくなった人生は、安らかだ。君たちはどうやって懐疑をなくすか。

タナトスの誘惑

 人間は、欲望という興奮を抑えるために、生きる。食欲、性欲、睡眠欲などの、「興奮」を抑えるために、人間は、活動をしていく。興奮の度数が高いほど、不快が強く、興奮がなくなるほど、不快が弱くなり、快が強くなる。けれども、欲望という興奮をなくすために生きているのならば、それは「死」へと向かっているのでは…?煩悩が滅した境地というのは、涅槃という、死人が住んでいる場所ではないのか…?
 僕にとって、食欲や、性欲はどうでもよかった。僕を「興奮」させるのは、倦怠感や疲労感という、身体に絡みつく「不快」だった。倦怠故に、活動をすることもできないし、極度の疲労感故に、寝ることもままならない。僕にとって不快のゲージを下げるのは、「死」以外に考えられなかった。タナトス。心理学用語にしては、あまりに神話的なこの言葉が、僕の頭蓋骨に憑りついたのは、いつのことだったか…。

 医者から貰った抗不安薬をかじりながら、無職の僕は、ぼーっと街へ出る、歩けば1時間かかるデパートへ本を買いに、電車へ乗る。僕の身体と僕はある種の違和を起こしていて、駅へ向かっている「知覚」を「知覚」しているのが僕で、駅のホームにいる「僕」を「知覚」しているのが僕だった。とにかく体が重い。ずっと下にうつむいている。うつむきながら歩いていると、高校生ぐらいの少女とぶつかった。彼女が話しかけていたスマートフォンが、駅のホームにからんころんと転がった。ちらりと画面を見ると、彼女はどこかのサイトで配信をしているらしい。シロアリのようなコメントで、画面が埋め尽くされていた。彼女がスマートフォンに手を伸ばしたと同時、僕も彼女のスマートフォンに手を伸ばした。手が触れた瞬間、顔を見た、瞬間、彼女が、何をしようとしているかが分かった。
 僕は、駅のホームをあとにした。彼女は僕と同じ匂いがした。彼女の脳内には、暗い神話が生きている。ホームを出た瞬間、女の悲鳴と、男の怒号が聞こえた。彼女はもう、遅すぎた。僕にはまだ早すぎる。
 家に帰ると、久々によく睡眠がとれた。
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