優生思想 比較 競争
自然世界は、弱肉強食であるから、「優生思想」は人間社会に根強いものらしい。僕たちが動物を食べるのも、動物より人間が「優れている」からだし、徒競走で1位の人が表彰されるのも、その人が「優れている」からだし、アイフォンの6Sより最新版のほうがいいのも最新版のほうが「優れている」からだ。
僕は、「優生思想」という名称よりも「比較思想」「競争思想」と言ったほうが、本質を表していると思う。「優れている」というのは、優/劣という二項対立の上で成り立つ概念でしかないから。
これは人には言ったことがないし、今ここで初めて人に披露するんだけれど、僕は小学校の頃、「体育できる人って、それだけで勉強できる人より明らかな優越があるのに、なぜ学校は勉強にウェイトを置くんだろう」という素朴な疑問を持っていた。大学を出てホワイトワーカーになったほうが勝ち組になれるとかそういうのは一切知らなかったから、本当に純粋に「勉強>体育」なのが意味が分からなかった。体も心も優劣はないのだから、体育を一つの「科目」に押し込めるのはおかしいと思った。
戦争の時代の手記などを読んだり、そういった時代のお坊さんの法話を聞くと、戦時中は「体>知」だったことが分かる。身体に病気を持っている非国民が、強い劣等感を持っていたという話をよく聞く。
他の時代、他の地域では、と例示していけば、「優/劣」の区別を相対化することはいくらでも可能だろう。現代の先進国では創造力、知性、金を稼ぐ能力が「優秀」だとされている。アボリジニにはそんなもん必要ないだろう。必要なのは「パワー」だけだ。優/劣というのは文化に相対的なものだ。
もう1回「比較思想」というところから考えよう。
人には「差」がある。それはそう。「差」があるから、「比較」することができる。それもそう。優れている人と、劣っている人がいる。そうか?
動物社会には「差」がある。だから強いものが弱いものを殺す。そこには冷徹な論理がある。ただ、人間は動物じゃない。
キリスト教の格率。「汝の隣人を愛せよ」仏教の格率「生きとし生けるものが幸福でありますように」フランス革命の原理「自由・平等・友愛」
たしかに、偏差値で「差」がつく社会になっている。社会構造は、冷徹かもしれない。そこは変えていかなきゃいけない部分だし、これから変わる部分だとも思う。ただ僕たち「人間」の「心」まで冷徹になる必要はないんじゃないか。偏差値で「比較」をして、「劣ってる人」を糾弾するのは、動物の世界の論理じゃないのか。蛙を丸のみにする蛇の論理じゃないのか。
「差」はある。仏教では「差別」とか「分別」という。この「差別」を「見る心」をなくす境地を「無分別智」という。いわゆる悟りだ。「さとり」とは「差取り」だと上手いことを言った人もいる。そういう「差」で優/劣をつけないことが、宗教的な一つの達成点だとされている。これは修行した人たちだけの特権ではなく、キリスト教の神は信じたものを全員平等に愛するし、阿弥陀仏は全ての人間を仏の子だと断言している。東大に入れる人と、入れない人は「差」がある。ただ、それで「差別」をする、卑しい心根を抜本的に改革する「論理」というのも、人間の営みの中で営々と続けられてきた。「差」を、ネガティブに扱って差別をするか、差などを超越した思想や営みに参加して、そういった心を得るか、僕は後者のほうが豊かな人生を送れると思うが、人を見下すのが好きな人は、好きにしたらいいと思う。それはもう、面々の御計らい(歎異抄2条)である。
ご承知のように、インドにはえぐい差別思想がある。4つの生まれによって、人間の「価値」が決まる。ヒンドゥー教は「ニティア(恒常性)」を尊んでいて、そのヒエラルキーが、いつまでも永遠に続くことを望んでいる。しかし、一番下にいる不可触民はたまったものじゃない。だから、ブッダはニティアの反対の、「アニッチャ(無常)」を希望にした。優生思想というのも、差別というのも、このニティアとアニッチャの闘争と言える気がする。自分が一生勝ち組だと思っている「ニティア」を持っているのが、優生思想。それに反旗を翻す「アニッチャ(無常)」の民がいる。ニティアは、宗教的な観念である。アニッチャは、リアルな現実である。アニッチャを無常と言ってもいいし、偶然性と言ってもいい。「おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。」「アニッチャ」という「現実」の前では、ニティアという宗教的観念を持っている人も、持っていない人も、誰しも平等である。
「差」がニティア(恒常)だと思っている宗教者と、そんなものは幻想だと喝破した人間たちの闘争が繰り広げられてきて、現在も続いているのだと思う。勝ち組というニティア。健常者というニティア。エリートというニティア。アニッチャ側のほうは、無常を原理として、「絶対無差別」や「弥陀の慈悲」という思想原理も組み立てた。仏教は差別との闘いと言ってもいい。ヒンドゥー教的に生きるか、仏教的に生きるか。戦いは続く。
to be continued...
僕は、「優生思想」という名称よりも「比較思想」「競争思想」と言ったほうが、本質を表していると思う。「優れている」というのは、優/劣という二項対立の上で成り立つ概念でしかないから。
これは人には言ったことがないし、今ここで初めて人に披露するんだけれど、僕は小学校の頃、「体育できる人って、それだけで勉強できる人より明らかな優越があるのに、なぜ学校は勉強にウェイトを置くんだろう」という素朴な疑問を持っていた。大学を出てホワイトワーカーになったほうが勝ち組になれるとかそういうのは一切知らなかったから、本当に純粋に「勉強>体育」なのが意味が分からなかった。体も心も優劣はないのだから、体育を一つの「科目」に押し込めるのはおかしいと思った。
戦争の時代の手記などを読んだり、そういった時代のお坊さんの法話を聞くと、戦時中は「体>知」だったことが分かる。身体に病気を持っている非国民が、強い劣等感を持っていたという話をよく聞く。
他の時代、他の地域では、と例示していけば、「優/劣」の区別を相対化することはいくらでも可能だろう。現代の先進国では創造力、知性、金を稼ぐ能力が「優秀」だとされている。アボリジニにはそんなもん必要ないだろう。必要なのは「パワー」だけだ。優/劣というのは文化に相対的なものだ。
もう1回「比較思想」というところから考えよう。
人には「差」がある。それはそう。「差」があるから、「比較」することができる。それもそう。優れている人と、劣っている人がいる。そうか?
動物社会には「差」がある。だから強いものが弱いものを殺す。そこには冷徹な論理がある。ただ、人間は動物じゃない。
キリスト教の格率。「汝の隣人を愛せよ」仏教の格率「生きとし生けるものが幸福でありますように」フランス革命の原理「自由・平等・友愛」
たしかに、偏差値で「差」がつく社会になっている。社会構造は、冷徹かもしれない。そこは変えていかなきゃいけない部分だし、これから変わる部分だとも思う。ただ僕たち「人間」の「心」まで冷徹になる必要はないんじゃないか。偏差値で「比較」をして、「劣ってる人」を糾弾するのは、動物の世界の論理じゃないのか。蛙を丸のみにする蛇の論理じゃないのか。
「差」はある。仏教では「差別」とか「分別」という。この「差別」を「見る心」をなくす境地を「無分別智」という。いわゆる悟りだ。「さとり」とは「差取り」だと上手いことを言った人もいる。そういう「差」で優/劣をつけないことが、宗教的な一つの達成点だとされている。これは修行した人たちだけの特権ではなく、キリスト教の神は信じたものを全員平等に愛するし、阿弥陀仏は全ての人間を仏の子だと断言している。東大に入れる人と、入れない人は「差」がある。ただ、それで「差別」をする、卑しい心根を抜本的に改革する「論理」というのも、人間の営みの中で営々と続けられてきた。「差」を、ネガティブに扱って差別をするか、差などを超越した思想や営みに参加して、そういった心を得るか、僕は後者のほうが豊かな人生を送れると思うが、人を見下すのが好きな人は、好きにしたらいいと思う。それはもう、面々の御計らい(歎異抄2条)である。
ご承知のように、インドにはえぐい差別思想がある。4つの生まれによって、人間の「価値」が決まる。ヒンドゥー教は「ニティア(恒常性)」を尊んでいて、そのヒエラルキーが、いつまでも永遠に続くことを望んでいる。しかし、一番下にいる不可触民はたまったものじゃない。だから、ブッダはニティアの反対の、「アニッチャ(無常)」を希望にした。優生思想というのも、差別というのも、このニティアとアニッチャの闘争と言える気がする。自分が一生勝ち組だと思っている「ニティア」を持っているのが、優生思想。それに反旗を翻す「アニッチャ(無常)」の民がいる。ニティアは、宗教的な観念である。アニッチャは、リアルな現実である。アニッチャを無常と言ってもいいし、偶然性と言ってもいい。「おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。」「アニッチャ」という「現実」の前では、ニティアという宗教的観念を持っている人も、持っていない人も、誰しも平等である。
「差」がニティア(恒常)だと思っている宗教者と、そんなものは幻想だと喝破した人間たちの闘争が繰り広げられてきて、現在も続いているのだと思う。勝ち組というニティア。健常者というニティア。エリートというニティア。アニッチャ側のほうは、無常を原理として、「絶対無差別」や「弥陀の慈悲」という思想原理も組み立てた。仏教は差別との闘いと言ってもいい。ヒンドゥー教的に生きるか、仏教的に生きるか。戦いは続く。
to be continued...
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