科学主義に抗して | 人生入門

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再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

科学主義に抗して

 現代の科学主義は、いうまでもなくデカルトの物心二元論から端を発している。私はポストモダンという名称は間違いであり、勝手にモダンを終わらせてくれるなと常々思っている。デカルトの物心二元論が、現代脳科学の旗手であるアントニオ・R・ダマシオ とスピノザが共鳴しているように心身平行二元論なのか、ラ・メトリーのような極端な人間機械論、どっちに進むのかはおいといて、「物質」が基底に置かれているのは間違いない。マルクス的な史的唯物論はソ連の崩壊と共に崩壊を迎えたが、古くはデモクリトス、エピクロス(マルクスがエピクロスの論文を書いてたのは有名だが)まで遡る、物質主義が現代の空気を作っているのは確かである。
 ここではデカルトをモデルとするが、デカルトのいう物質とは「延長」のことである。長さがあるものが物質であり、それが生命を構成している。脳科学者の池谷裕二も、物質主義の立場において、自由意志はないだろうと発言しているし、同じく脳科学者であるデイヴィッド イーグルマンは、「自由意志はない、故に犯罪者に犯罪責任はない。」という啓蒙活動まで行っている。まさに科学の名において「責任という虚構」という概念が構築されている。
 私はこのデカルト主義に抗するための思想としては、現象学的実存主義が、一番有力であると思う。フッサールの生活世界論、ハイデガーの手元存在理論、サルトルの完全自由論。ここでは主著の存在と時間において、明確にデカルト批判をしているハイデガーの主張を見てみよう。
 ハイデガーは(おそらく師のフッサールの生活世界論を受ける形で)手元存在という概念を編み出した。例えば、ここにハンマーがあるとする。虚心坦懐にその場面を想像してほしい。その場合、ハンマーの化学的成分などに、気持ちが向くことがあるだろうか?そうではなく、そのハンマーの「くぎを打つ」という道具的意義に目が行くだろう。目が行くというのも正確ではない。すでにそのようにとらえる世界に「生きてしまっている」という表現のほうが正しい。ハイデガーは、そのような「生きられた世界」を手元存在と呼び、デカルトのような「手前存在」は、逆にその派生態だと看破する。
 サルトルも、そもそもデカルト的な「コギト」を認めていない。コギトは「対自的」な存在である。対自的である故に、「存在減圧」が起こり、「必然性」が崩壊する。ここに自由がある。
 科学の方法、現象学の方法、どちらが根源的かと言えば、現象学のほうに軍配があがる。少なくとも、フッサールやハイデガーはそう考えていた。フッサールは現象学が諸科学の基礎になるべきだと考えていたし、ハイデガーは諸科学は存在論が基礎づけるべきだと考えていた。
 ボン大学教授のマルクス・ガブリエルが言うように、デカルトから端を発する「ニューロン主義」や「過激ダーウィニズム」は、人間の尊厳を奪う可能性がある。私たちは、科学を謳歌する前に、もう一度20世紀の思想家たちの死闘を、振り返るべきではないか。

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