16歳のときに、ボードリヤールの「消費社会の神話と構造」を読んだ。当時のフランスの事情とかは分からなかったけど、骨子は非常に簡単で、全ての消費が「記号的消費」になってしまったということだ。「使用的価値」例えば寒さをしのぐために服を着たり、サバイバルするために本を読むという価値は奥へ引き下がって、「記号的価値」即ち、服や本を自分はこういう人間だ、という「記号」にするために消費がなされるようになった。見せびらかし消費というと分かりやすい。
中学生の時に、某アイドルグループが熱烈に好きな女子のグループがいたんだけれど、僕は冷ややかな目で「アイドルが好きな自分が好きなんでしょ」と友達に言っていた。僕はこれは今でも当たっていると思う。ネットでできた男友達がいて、そいつはアイドル声優のおっかけで大学を中退したんだけれど、中退した数年後に、「オタクをアイデンティティにしていた」と言っていた。「そんなもん当り前だろ…」と思った。
中学生のときに、添付している画像を見て、意味が分からなかった。「何が好きか」というのは「ファッション」でしかない。僕の場合は哲学と仏教がアイデンティティでありファッションであるんだろうけれど、「哲学と仏教が好き」と言ったところで、僕の見せびらかし的消費が行われているにすぎない。僕は「自分」を語ることなど不可能だと思う。自己紹介にした途端、それは「ファッション」になってしまう。僕が信じるのは、沈黙の行動、もしくは「文体」である。
これは現代病なのか、人間の宿痾なのか知らない。僕は虚栄心という人間の抜きがたい原罪であるように思う。僕が見せびらかし的消費をしていることは間違いない。これは、人間の「病気」であるから仕方がない。せめて、自覚的になりたいと強く思う。そして、そういう病気を持った自分も他人も、赦せるような人間になりたい。
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