人生入門

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カフェイン

 歯医者のせいで朝早く起こされて、眠気がひどかったので、モンスターエナジーというエナジードリンクを初めて飲んだ。眠気が凄かったのに、眠気が吹き飛ぶどころか、やる気がみなぎってきて、その日は存在と時間を200ページ読むことができた。カフェインの作用機序は詳しくないけれど、脳みそのどっかに働いて物質が出てどじゃーんってなるんだろう。
 メンヘラ界隈の女の人が、脳みそは素粒子であって、それ以上でもそれ以下でもなく、その機序で、自分は精神が鬱になり、本当にそれ以上でも以下でもない、素粒子の歪みが自分の鬱だ、と遺書に書いてあった。人間は物質の奴隷なのか?現代の精神医学を見ていると、そう思いたくなる。
 僕は17歳のころに初めて抗不安薬を飲んだんだけれど、その時に(唯物論に屈してしまった…)とネットの友達と笑いながら言っていた。脳みその物質で「心」が変わるのなら、心は物質に還元できるんだろうか。

 意識の哲学に、意識随伴説というのがあるんだけれど、その説は意識は自分の行動を「モニター」しながら随伴しているだけで、意志決定などには何も参加していないという説だ。脳みその機械的な動きが全て人間の行動を決めて、意識はモニターするだけだ。もしそうだとして、じゃあ、この身体とは何なのか?

 この身体は、福岡伸一教授によると動的平衡であるらしい。物質のエネルギーの流れ、逆エントロピー、ネゲントロピーが身体であって、神秘的な「生気」というものはないらしい。けれど、ここまで科学的に「神秘」をそぎ落としても、どうしても「宗教的」とでもしか言えない事実がある。それは、自分の身体は自分の身体ではないということだ。人間の細胞は3年ぐらいで全て入れ替わるらしいけれど、その細胞一つ一つが、僕のものではない。他の生命を、殺生して奪った「物質」が僕の身体になっている。今キーボードを打っているこの指も、この前食べた魚のたんぱく質かもしれない。目も手も耳も鼻も、足も全て他の生き物の殺生においてなりたっている。僕の身体は、「殺す身体」であり、「殺された身体」である。
 
 そしてこの「殺された身体」からできた「殺す身体」は、心臓を打っている。呼吸をしている。たくさんの生き物の死から生まれたこの身体は、今も「生きたい」と心臓を打っている。意識はコーヒー豆で変わるような脆弱なものかもしれないけれど、心臓は鼓動を打っている。「僕の意志」とは全く無関係に。「身体」は生きたいのだ。殺してきた僕たちに、自殺する権利はあるんだろうか。 

 親鸞聖人は、遺言に「親鸞、閉眼せば、賀茂河にいれて魚に与うべし。」と言ったらしい。「殺された身体」からできた「殺す身体」もまた、「殺される身体」になっていく。こういうのを、ある科学者は科学的輪廻と言ったらしい。この世は「苦」だ。身体を脱ぎ捨てて、殺されない世界、殺すことのない世界へ、行こう。
 

本願成就

 本願「成就」ということが非常に深い意味を持っていることに気づかされた。法蔵菩薩がこれから修行をして成就させるわけでもない、僕が信じたら本願が成就するわけでもない、すでに本願は「成就」している。救いの法は完成している。僕が信じたら、救いが完成するのではなかった。すでに「成就」している救いであるところの「南無阿弥陀仏」だけでよかったのだ。
 「僕の救い」は「完了」している。それに手を出すと、心が変なことになる。いつでも、どこでも、僕のいるところは、救いが完了している。

 僕が信じたら本願が成就するわけではなかった。どの人間の救いも、すでに完成されている。救いが完成していることを「聞く」だけ。その意味がようやく分かってきた。

 

人間の演劇的三重構造

 フロイトは超自我、自我、エスという風に人間を三重に捉えたけれど、心理学的にではなく、演劇的にとらえたらどうか。
「すべての虚栄心がつよい人間が、よい俳優であることに気づかされた。彼らは演じ、そして見物人がよろこんでくれることを望む———彼らの意志は余すところなくこの意志の下にある。
 彼らは舞台にあがってかりそめの自分を演ずる。わたしは彼らのそばにいて、その人生を見物することを望む。————憂鬱が癒されるから。—————ツァラトゥストラかく語りき」

 人間は全員俳優である。僕はよく、友達から相談を受けることが多いんだけれど、「いい人に思われたい」という思いが多分にある。「いい人に思われたい」という「中の人」が、「相談を真剣に聞く人」という「役柄」を演じる。まず「中の人」は、「煩悩」である。それが一番際立っているのはニーチェもいうように「虚栄心」という煩悩だろうけれど、「貪欲」、「瞋恚」「愚痴」という「心」は、すべて身体的な行為へうつされる。「腹が減った」→「ご飯を食べる」 「あいつが嫌い」→「悪口を言う」 
 「中の人」は「煩悩」である。煩悩という中の人が、「人間」を演じている。ただ僕は、「煩悩」にも「人間」にも解消されないものがあると思う。それは「意識」である。「批評」と言ってもいい。演劇に「批評」はかかせない。「意識」は何をするか?それは煩悩という中の人や役柄を「認識」する。それからあれこれ「言論」をするかどうかは、人それぞれだ。

 人間は、全員、俳優であり、観客である。それが第一の世界である。ここでは全てが表面的だ。全ての言葉が「本物」だ。ここに「嘘」はない。もし「嘘」があったとしても、それは劇場という「表面的な真実」の中で言われていることだから、ある意味、嘘は嘘という「本当」である。全てが真実で、すべてが嘘である。ここしか知らない人は、幸福な豚である。
 俳優に「中の人」がいる。それは煩悩である。ここでは全てが嘘である。「中の人」の「思惑」や「計算」と、「役柄」が一致することはない。「ここは俺が奢るよ」という「役柄」と、「だからヤらせてくれ」という「中の人」が一致することはない。全てが嘘である世界である。
 批評とは何か。それはこの「表面的で本当の世界」と「舞台裏の嘘の世界」を認識し、それにコメントをする行為だ。表面的で本当の世界を称賛することもできるし、嘘の世界の欺瞞を暴露することもできる。

 「中の人」の認識と「批評意識」の覚醒は同時である。全てが嘘になる。表面的な言葉に潜む影におびえる人間になる。

 批評家は、「対象」を求めて貪欲に動く。全ての対象を喰らった後、残るのは己の欺瞞だけになる。ここから「深い人間は自殺せざるを得ない」というテーゼが必然的に導かれる。

 この演劇的三重構造からは、「表面的な俳優」を殺す自殺、「中の人」を殺す作業である「聖道門」、「他者から欺瞞を赦される」という「他力門」が導かれる。

ハリウッドザコシショウだけがリアルである

 シェイクスピアに「キレイは汚い。汚いはきれい」というセリフがある。文脈は知らないからシェイクスピアの意図は知らないけど、僕もそう思う。

 人間は煩悩に目鼻がついている。「もしも誰か、憤慨するでもなくむしろ無邪気に、人間とは二つの欲望をもつ胴体と、一つの欲望をもつ頭で作られた存在だと主張するなら、人間はいつも飢えと性欲と名誉心の働きをみつけ、求め、見出そうとすること、それこそが人間の行動の唯一で本物の欲動だと主張するなら、要するに人間は———"邪悪"な存在ではなく———「卑しい」存在なのだと主張するなら、認識を愛する者であれば細部にいたるまで熱心に耳を傾けてしかるべきなのである。————ニーチェ」僕は、人間を形容するのに、理性のある動物でもなく、技術のある動物でもなく、遊ぶ動物でもなく、死を知る動物でもなく、「卑しい動物」であると定義したい。

 人間は、「卑しい」。これを仏教では煩悩があるというし、キリスト教では原罪があるという。自己中心的で、飯と女のことしか考えてなくて、自分を人によく見せることばかり考えている。なぜそんなことが言えるのか?それは僕がそうだからだ。僕は卑しい、さもしい、あさましい。それはお前の性格が悪いだけじゃないのか、と言われるかもしれないけれど、ネットで見ている限り、人間の「卑しさ」の匂いを嗅ぐのは簡単だと思う。

 僕は、ブランド品で身を固めるのは「ダサい」と思う。それは「卑しい」気持ちでしているから。外車に乗るのもダサい、ツイッターするのもダサい、哲学するのもダサい、文学読むのもダサい、詩を書くのもダサい。卑しい。

 ハリウッドザコシショウだけがリアルである。人間の「下品さ」を露骨に表現する。文学的な下品さではなく、もう本当にただの「下品」である。「いい年こいて何をやってるんだ」というところに、「ダサさ」はない。いい大人が裸で「うんちょ」「珍棒」とか言ってるところに「厭らしさ」がない。人間の下品さの暴露。もちろんザコシにも名誉欲や性欲はあるだろうが、「くだらない下品さ」という表現は、「格好がいい表現」に疲れた僕にとって、本当に癒しになる。詩人が「かっちょいい」表現をしているところで、ザコシは「尿道に溶けた鉄をとくとく注ぐ〜♪」と歌っている。僕は後者のほうが「人間的」な表現であると思う。

 まあ、一言でいえば、「お高くとまってんじゃねえよ!ちんげ!まんげ!」
 

全ての霊性は一つの原理に収れんできるのか?

宇宙の根本神は万能であるからして有形、無形のいずれの相をとっても存在できる。
時代・地域・民族の違いに相応した形式と教えを通じ、神は自己をさまざまに顕現する。万神は唯一神の具現にして、万教は一真理の多彩な表現である。
人は自らの信じる宗教を通じて神と一体になり得る。その時、自分の信じる神のみが正しく、他の宗教は正しくないとする考え方は誤りである。信者が自分の宗教の正しさを信じるのはいいが、他の宗教についてはわからないというのが最も自然な態度であろう。
自分の宗教を通じて神と合体する方法や道はいろいろある。しかし、方法や道は手段であり、目的や到達点である神そのもとと混同してはならない。
どの宗教にも誤りや迷信があるかもしれないが、神や究極の実在を求める気持ちがあればよい。

 ラーマクリシュナという20世紀最大の聖者と呼ばれるインド人の思想である。これについて考える。

 まず、聖道門と他力門を区別して考える。ここでは、聖道門とは「真理」を自ら体得する宗教全般を指す。

 テーラワーダ仏教は典型的な聖道門だが、その「悟り」の内容が、全く同じだとはとても言えない。瞑想に種類があり、ティアン派、マハーシ派、パオ・サヤドー派、森林派などがあるのだが、森林派のアチャンチャーが、マハーシ派の悟りを「あんなのは悟りではない」と痛烈に批判しているという実態があるらしい。逆に、高名なブッダダーサ比丘や、アチャンチャーは、禅仏教を高く評価しているという共時性もある。パオ・サヤドーからテーラワーダ仏教を学んだ山下良道は、師匠から受け継いだ「第五図」という表現を用いて、テーラワーダの修行方法から、禅の悟り(のようなもの)を目指すという独特の道を行っている。山下良道は現代アメリカのスピリチュアルリーダーであるエックハルトトールにも共鳴していて、法話でよく引用をしている。
 エックハルトトールは、インドのアドヴァイタ系の思想の影響を受けているといわれている。アドヴァイタを大成させたのはシャンカラであり、そのアドヴァイタの近代ルネッサンスになったのが、ラマナマハルシとニサルガダッタ・マハラジの2大スターである。この2人は「人間は意識である。身体ではない。」と繰り替えし説いている。これは「無常を観じる」というテーラワーダ仏教の悟りと明確に差がある。ただし、先ほど引いた山下良道は著作でマハラジの名前も出しており、「文化は違えど真理は一つ」という主張をしている。最近はアドヴァイタが欧米に輸入され、ネオアドヴァイタなるものが登場して、日本のスピリチュアル界でも一定の存在感があるが、本来のアドヴァイタからは離れているという批判もされている。
 禅については、僕は何も語れない。不立文字だ。
 このように、一口に「悟り」と言っても、かなり錯綜している。「悟らなくたっていいじゃないか」という新書には、「ただ一つの悟りという幻想」は批判しなければならないとあったが、僕もそうだと思う。

 他力門を考える。ここで他力門とはいわゆる信仰を指す。ただ僕は真宗とキリスト教ぐらいしかしらない。
 信仰は、超越者からの愛である。その一点はどの宗教も一致していると思うが、その愛の内実が微妙に違ったりしている。キリスト教は神を愛するが、真宗は佛に愛される。愛の方向が双方向だったり、一方的だったりする。これは結構大きな違いだと思う。
 赦しというファクターも似ている。ヨーロッパの宣教師が真宗を見てキリスト教そっくりと言ったという逸話があるが、本質的に似ているものなのかもしれない。
 イスラム教はかじったぐらいだけれど、信仰というよりも、戒律に厳しいイメージがある。
 他にも神道は、全てのものに神が宿っていると考える。このようなアニミズム的な信仰が、果たして超越者信仰と同じ霊性に基づいているのかは、わからない。
 浄土宗に光明主義というのがあるんだけれど、それは弥陀「への」愛を念仏によって高めていって、阿弥陀仏と「合一」するという宗派である。こうなると聖道門やキリスト教神秘主義、スーフィズムとあまり変わらなくなる。

 浄土教に絞って考えても、自ら修行して、その功徳を振り向ける宗派もあるし、念仏の功徳を振り向ける宗派もある。いろいろある。

 なんかこう、「ブラフマン」みたいなものはあるのか?テーラワーダの悟りと、アドヴァイタの悟りは同じなのか?真宗の阿弥陀仏とキリスト教の神は同じなのか?分からない。分からないけど、僕はとりあえず念仏をしとこう。なむあみだぶつ

ヨルシカ 表現者=売春婦

俺は泥棒である。
往古来今、多様な泥棒が居るが、俺は奴等とは少し違う。
金を盗む訳では無い。骨董品宝石その他価値ある美術の類にも、とんと興味が無い。
俺は、音を盗む泥棒である。

春をひさぐ、は売春の隠語である。それは、ここでは「商売としての音楽」のメタファーとして機能する。
悲しいことだと思わないか。現実の売春よりもっと馬鹿らしい。俺たちは生活の為にプライドを削り、大衆に寄せてテーマを選び、ポップなメロディを模索する。綺麗に言語化されたわかりやすい作品を作る。音楽という形にアウトプットした自分自身を、こうして君たちに安売りしている。
俺はそれを春ひさぎと呼ぶ。——————ヨルシカ

過去のブログから引用する
【生きる事を受け入れたからには、売春を受け入れなければならない。売春は、生の根本要件だと思う。売春の特徴をあげよう。
@媚びる
A痴態を晒す
B対価を貰う
 シオランが言っているように、売春にも程度があるんだろう。売春ゲージ、売春スペクトラムというものがある。
 僕が売春ゲージが高いと思うのは、文筆家、アーティスト、画家、大臣、などだけれど、生きている限り、この「売春」からは逃れられないんだろう。「生きる」こととは、本来恥ずかしいことなんだろう。Twitterで流れてきたネタツイートにも「売春」を感じるし、オモシロ漫画にも売春を感じるし、生は全部、「恥ずかしい」。
 売春と、自殺の間にスペクトラムがある。売春———自殺間に無限のグラデーションがあり、人はその中のどこかに位置付けられながら生きる。僕は、文学者などがよく自殺するのは、この売春に耐えられなくなったからであると思う。生を凝視し続けると、根底の売春が炙り出され、その売春を物語化するのが文学といえるが、その文学を物語るのもまた売春なので、最後には自殺するしかなくなる。もちろんこのブログを書くのも売春であるし、これをツイッターに貼りつけるのも売春である。みんなが売春婦を軽蔑してるのは、ただ、自らの売春性を隠すために、スケープゴートにしているだけなのかもしれない。】
 
 このヨルシカの怪文書を読んで、人と話し合ったところ「表現なんか全部売春なんだから、これ以上話しても、表現者の悪口にしかならない」と言われた。僕が見つけたのは「座禅と念仏」だけど、それ以外にはまだ「純粋な表現」は見つかっていない。
 虚栄心を満たすため、他者の視線を食べるために、体を売る売春婦たち。僕たちは彼らを「ピエロ」として消費すればいいのか?僕はまだ、純粋な表現というものはあると思う。

 僕は「表現」がここまで「厭らしく」なってしまったのは、主に「ヘブライズム」のせいだと思う。そのヘブライズムの何が問題かというと、それは「主観性」の原理で動いているからだ。つまり、「神」のバカでかい「主観」が思想原理になっている。この「主観性原理」はヘブライズム以前にも、ピュタゴラス―プラトンの系譜で先鋭化していたらしいが、その主観性の原理が「表現」の原理にもなってしまった。
 主観というのは、何かを「前に置く」ことだ。神が死んで、人間が神になったあと、神の主観が人間に譲渡され、人間は創造物を主観の「前に置く」ことができるようになった。芸術をよく「オナニー」ということがあるが、それは作品を「前に置いている」からだと思う。「前に置いて」7日間で、様々な「化粧」をする。7日間で大衆に寄せてテーマを選び、ポップなメロディを模索する。綺麗に言語化されたわかりやすい作品を作る。それが「厭らしさ」に繋がる。
 
 近代の観念論のあたりから、人間の主観性がバグってきたという気がする。近代以前の禅画などを見ると、一つも厭らしさがない。仏像などを見ても、一つも厭らしさがない。ここには神から譲渡された「主観」がない。「自然」と感応した表現、というのは少し陳腐だけれど、「前に置く」という「主観性」に肩まで浸かっている現代人に、売春でない表現ができるとは思えない。
 これはいつも書くことだけれど、芭蕉は「する句」ではなく「なる句」を作れと言っていたらしい。聖書は神の「主観性」によって、世界が作られるけれど、古事記には天地(アメツチ)から神が「成って」いると書かれている。「古池や 蛙飛び込む 水の音」芭蕉の自己主張というものは一切ない。「前に置いて」いない。けれども他者の「前に置く」ことは決定的な売春ではないのか?そうも思うけれど、彼らは「主観性」に首を絞められていなかったので、別の原理で作品を「発表」していたのかもしれない。それが「自然」だったのかもしれない。

 宮沢賢治のアメニモマケズが雄弁に語っているように、宗教的表現は確かに売春ではない。けれどもそれ以外の売春ではない表現の可能性も考えていきたい。

ツァラトゥストラかく語りき 虚栄心

 わたしの第二の処世術はこうだ。誇り高い人よりも、虚栄心がつよい人のほうを大事にする。
 傷つけられた虚栄心はあらゆる悲劇の母ではなかろうか。だが誇りが傷つけられるならば、そこに誇りよりも良い何かが生まれいずるだろう。
 生が楽しい見ものであるためには、その劇がうまく演じられなくてはならない。だがそのためにはよい俳優が必要だ。
 すべての虚栄心がつよい人間が、よい俳優であることに気づかされた。彼らは演じ、そして見物人がよろこんでくれることを望む———彼らの意志は余すところなくこの意志の下にある。
 彼らは舞台にあがってかりそめの自分を演ずる。わたしは彼らのそばにいて、その人生を見物することを望む。————憂鬱が癒されるから。
 だから虚栄心がつよい人々を大事にする。彼らはわが憂鬱を治す医者であり、わたしが一つの演劇に引き付けられるように、わたしを人の世にかたくつなぎとめてくれる、
 彼は自信を諸君から得たいと思っている。君たちの視線を食べて生きている。君たちの手から賞賛をもらってむさぼり食う。
 その耳にこころよい嘘をつけば、でたらめでも諸君を信じる。こころの奥底でこうため息をついているから。「このわたしが何だろう。」———————処世術について

 ニーチェを読むとハッとさせられる文章に出会うことがある。ニーチェ自身は勿論、こういう虚栄心の強い「俳優」などという薄っぺらな人間ではなく、「仮面」を被った深い精神、つまりこじらせているのだけれど、ここでは他人の「虚栄心」を憎むのではなく、演劇として楽しめ、と言っている。ニーチェは勿論、虚栄心をそのまま直情的にぶちまけるような、そんな浅い精神ではないが、ここでは「処世術」として語っている。
 僕個人は、自分の虚栄心の許せなさ、から他人が無反省に虚栄心丸出しで、ネットやテレビで「でしゃばっている」のが本当に許せなかったんだけれど、この処世術は、かなり僕に有効そうだ。自分の中で「僕は自分の虚栄心に潔白で、それを抑えに抑えているのに、動物みたいに虚栄心丸出しの人間がずるい」という気持ちが根深く生えているんだけれど、これからは彼らを「俳優」だと見よう。ツイッターで有名人になろうとしている/なっている、虚栄心丸出しの君たち、ツイッターで小難しいことを言っている衒学趣味の人たち、絶望から詩に逃げたお前、絶望から歌に逃げたお前、自撮り依存のお前、は全員、大衆の視線を食べながら生きていて、心の奥底では「このわたしが何だろう」と思っている。他者の視線に支えられた自己など幻想にすぎない。
 ニーチェの格率は「汝は汝のあるところのものとなれ」だが、それは虚栄心に踊らされている「俳優」には無理な相談だろう。僕は人間が己自身になるのは「無限者の視線」に照らされて即自化したときだと思うけれど、神を殺したニーチェは己自身になれたんだろうか。

 なんにしても、いい言葉に出会った。虚栄心丸出しで舞台に上がっている人を、憎む必要はない。彼らは人の視線を食べている役者だ。演劇を楽しめばいい。僕みたいな人にはよく効く「処世術」だと思う。

 父親の兄貴、つまりおじさんと2人きりで一度だけドライブしたことがあるんだけれど、別れ際に「まっすぐ見ろよ。裏とか考えてたらキリがないから。言葉をまっすぐ見ろ」と言われたことがある。僕とほとんど交流のないおじさんだけれど、僕のような精神構造を持っていたのだと思う。そしてそれを「処世術」にしていたのだろう。僕は「処世術」にはしたいけどやっぱり人間の「裏」を「憎む」ことはなしに(できれば楽しんで)、凝視し続けることは、したい。

何者にもなれない

 と嘆いている友達がいるんだけれど、僕は僕である。僕は、僕であることしか「ありえない」ことのほうが気持ち悪い。
 松本人志は松本人志でしかありえないし、田中太郎は田中太郎でしかありえないし、僕は山中大地(本名)でしかありえない。僕の「山中大地性」みたいなものからは、死ぬまで逃れられない。
 こういう感覚は哲学者の永井均やお坊さんのネルケ無方さんにもあったようで、「分かる人には分かる」し「分からない人には分からない」感覚なのだと思う。僕は僕が山中大地であることが「気持ち悪い」。何者にもなれないどころか、僕は山中大地でしかない。キリスト教の異端には「肉体は悪魔の檻。人間は生まれると檻に閉じ込められる。」という思想があるらしいが、その教義を思いついたのは僕たちみたいな人だったのだろうと思う。永井均が永井均でしかないこと、ネルケ無方がネルケ無方でしかないこと、僕が山中大地でしかないこと、これに「驚き」を感じる人が哲学者になるのだと思う。僕は「気持ち悪さ」しか感じない。
 名前を呼ばれても、鏡を見ても「それ」が「僕」だと思えない。でも僕は「それ」でしかありえない。「それ」が痛がったら僕も痛いし、「それ」が疲れていたら僕も疲れる。
 山中大地ではない「僕」とはなんなんだろう。思考?自意識?

 大無量寿経に「身自ら之を当(う)け、代わる者あることなし」という文言がある。僕たちの状況をよく表している。お釈迦様も阿弥陀仏も「これ」にいる「僕」の身代わりをすることはできない。
 何者にもなれない、という根源には、「俺は俺でしかありえない」という気持ち悪さがあるんじゃないか。そっちのほうが根本問題だと思う。
知識って最終的には虚しいよ

知識って最終的には虚しいよ

 友達に、お前って将来こうなりそうだよな、という言葉と共に送られてきた画像である。このテレビ番組は見てないんだけれど、ロシア文学や哲学を読みまくっていたおじいさんだった記憶がある。知識って最終的には虚しいよ。
 最近はハイデガーを勉強している。理解できた喜びはほかに代えがたいものがあるけど、やってて「これが一体なんになるんだ?」という思いが拭えない。大学で専門的に哲学をやってる人は、キャリアのためにやるというのが9割ぐらいの動機を占めているけれど、僕の場合哲学をやったところで一銭にもならないし、哲学で女が寄ってくる時代は40年前に終わったらしい。
 僕が哲学をしている理由は、虚栄心、好奇心、アイデンティティ、がそれぞれ3分の1ぐらいだろうけど、このおじいさんぐらいの年になると、その3つとも衰えると思う。「好奇心というものは、実は虚栄心にすぎない。 たいていの場合、何かを知ろうとする人は、ただそれについて他人に語りたいからだ。」というパスカルの言葉も否みがたいし、僕が哲学をやっている理由はほぼ虚栄心なのかもしれない。でも、楽しさも否みがたい…。
 イデア論を知ってようとベルクソンの時間論をしってようと、ハイデガーの存在論を知ってようと、よくわからん文学者を知ってようと、人間は死ぬ。
 「答え」が欲しい。西洋哲学は「懐疑」と「対話」の上に成り立っているから、原理的に「答え」は出ない。東洋思想は、「答え」から始まるので、「答え」を手にすることができる。そして東洋的な「答え」は、知識ではなく、道(タオ)であったり、涅槃であったり、座禅であったり、念仏であったりする。「知識」の中に「答え」はない。
 インテリぶってるバカどものために、蓮如上人の言葉を引いて終わる。
それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。
たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり—————蓮如

 

信仰は霊性の実験である 諸君、実験すべし

 カトリック信者の、「霊性の哲学」という本を数か月前に読んだ。鈴木大拙の「日本的霊性」を読んだのは、二年前ぐらいだろうか。「霊性」という言葉に、惹かれている。
 霊性という言葉は、永遠性とか、スピリチュアリティとか、いろいろ言い換えられるんだろうけれど、僕は「霊性」が一番しっくり来る。鈴木大拙によると、知性と感性の「奥」というか、それを包んでいるようなものが「霊性」であるらしい。西田幾多郎は、たしかどこかで「宗教とは霊性的な事実である」というようなことを書いていた気がする。
 「霊性の哲学」には、弁栄から、柳宗悦、井筒俊彦のような、霊性の探求者が、列挙されていた。著者はカトリックということで、他宗教には寛容な精神で、霊性の歴史というものをたどったのだと思う。多様な宗教から、「霊性」というコアを引き抜いて考察するのは、たしかに意義深いことだ。
 現代人に、なるべく胡散臭くないように、宗教を語るには「霊性的な事実」と語るのが良いのではないかと思う。「霊性」というのは、浄土教でもキリスト教でも禅宗でも見られる普遍的な現象であるから、相対主義的に信仰を懐疑している人には、そういえばいいんじゃないかと思う。
 極端なことを言えば、脳みその中には「ゴッドスポット」という、電気刺激をすると信仰心が異常に高まる部位があるらしい。どの精神現象にも、物質的なものは随伴しているのは当たり前なので、これを持って信仰をニューロンに還元するのは愚かだけれど、この「ゴッドスポット」を「霊性」とか「仏性」とか言えば、現代人にも受け入れやすいんじゃないか。
 僕は科学主義者である。だから、信仰上の実験をしている。その結果、確かに「霊性」というものに触れることができた。そして、その霊性が、人生や心を豊かにして、人生の根本問題の解決をもたらすものであることが分かった。これは僕の実験である。疑っている人は、自分で実験してみたらいい。清沢満之風に言うと、霊性は「主観的な事実」である。僕の主観にペットボトルがうつっているように、僕の主観に霊性が宿っている。

 これは少し問題含みの表現だが、人間の「霊性」を開花させるために、宗教というものがある、と考えたらどうか?人間の「霊性」「仏性」を開くために、キリストやお釈迦様が現れた。

霊性に触れることのメリットを箇条書きにしてみる
1、喜びが溢れてくる。理由のない多幸感。
2、死の恐怖の薄れ
3、ともに悲しんでくれる超越者がいる
4、同行と喜びを分かち合える
5、孤独感の薄れ
6、世界が広く感じられる

デメリット
1、霊性を開花させるまでの苦労(個人差はあるだろうけれど)
2、宗教に理解のない人から叩かれる
価値観を強制的に植え付けられるとか、戒律があるとか、そういうのは一切ない。僕は信仰をしているけれど、自由に哲学をして、己の価値観を磨いている。

 僕にとって幸福だったのは、科学主義である「近代」を乗り越えようとしている哲学を摂取していたことだと思う。現代人のほとんどは唯物論者で、心はニューロンに解消されると思っているだろうけれど、哲学的に、そのテーゼは穴だらけだ。最近読んでいるハイデガーにもそういうことが書かれてあるし、最近の本だとマルクス・ガブリエルが、唯物論批判をしている。現代人の信仰への「つまずき」は、「科学主義」を誇る「頭」を、下げられないことだと思う。科学という真理を知った「頭」を、何かにさげたくない。唯物論的な世界観で、快楽主義的な主人公になりたい。そういう気持ちだと思う。そういう人は「「私」は脳ではない」を読んだらいい。

 僕が浄土真宗の勉強を始めたころは、ユーチューブにお説教がアップされていることはほとんどなかったのだけれど、最近急に、良質の動画がアップされるようになった。僕は寺に1円も払ったことがない。無料で幸福度があがる「しかけ」が、何千年も前から開発されているから、それを有効活用してほしい。
NEW ENTRIES
幻想主義者(02.13)
お釈迦さまとの対話(02.07)
なぜ苦しいのに生きなければならないのか(01.30)
人生の目的(01.25)
宗教 疑い(01.23)
仏教とは認知療法である(01.22)
親ガチャ(01.22)
オーバードーズ(01.17)
シオランと坐禅(01.17)
孤独(01.15)
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