全ての霊性は一つの原理に収れんできるのか?
宇宙の根本神は万能であるからして有形、無形のいずれの相をとっても存在できる。
時代・地域・民族の違いに相応した形式と教えを通じ、神は自己をさまざまに顕現する。万神は唯一神の具現にして、万教は一真理の多彩な表現である。
人は自らの信じる宗教を通じて神と一体になり得る。その時、自分の信じる神のみが正しく、他の宗教は正しくないとする考え方は誤りである。信者が自分の宗教の正しさを信じるのはいいが、他の宗教についてはわからないというのが最も自然な態度であろう。
自分の宗教を通じて神と合体する方法や道はいろいろある。しかし、方法や道は手段であり、目的や到達点である神そのもとと混同してはならない。
どの宗教にも誤りや迷信があるかもしれないが、神や究極の実在を求める気持ちがあればよい。
ラーマクリシュナという20世紀最大の聖者と呼ばれるインド人の思想である。これについて考える。
まず、聖道門と他力門を区別して考える。ここでは、聖道門とは「真理」を自ら体得する宗教全般を指す。
テーラワーダ仏教は典型的な聖道門だが、その「悟り」の内容が、全く同じだとはとても言えない。瞑想に種類があり、ティアン派、マハーシ派、パオ・サヤドー派、森林派などがあるのだが、森林派のアチャンチャーが、マハーシ派の悟りを「あんなのは悟りではない」と痛烈に批判しているという実態があるらしい。逆に、高名なブッダダーサ比丘や、アチャンチャーは、禅仏教を高く評価しているという共時性もある。パオ・サヤドーからテーラワーダ仏教を学んだ山下良道は、師匠から受け継いだ「第五図」という表現を用いて、テーラワーダの修行方法から、禅の悟り(のようなもの)を目指すという独特の道を行っている。山下良道は現代アメリカのスピリチュアルリーダーであるエックハルトトールにも共鳴していて、法話でよく引用をしている。
エックハルトトールは、インドのアドヴァイタ系の思想の影響を受けているといわれている。アドヴァイタを大成させたのはシャンカラであり、そのアドヴァイタの近代ルネッサンスになったのが、ラマナマハルシとニサルガダッタ・マハラジの2大スターである。この2人は「人間は意識である。身体ではない。」と繰り替えし説いている。これは「無常を観じる」というテーラワーダ仏教の悟りと明確に差がある。ただし、先ほど引いた山下良道は著作でマハラジの名前も出しており、「文化は違えど真理は一つ」という主張をしている。最近はアドヴァイタが欧米に輸入され、ネオアドヴァイタなるものが登場して、日本のスピリチュアル界でも一定の存在感があるが、本来のアドヴァイタからは離れているという批判もされている。
禅については、僕は何も語れない。不立文字だ。
このように、一口に「悟り」と言っても、かなり錯綜している。「悟らなくたっていいじゃないか」という新書には、「ただ一つの悟りという幻想」は批判しなければならないとあったが、僕もそうだと思う。
他力門を考える。ここで他力門とはいわゆる信仰を指す。ただ僕は真宗とキリスト教ぐらいしかしらない。
信仰は、超越者からの愛である。その一点はどの宗教も一致していると思うが、その愛の内実が微妙に違ったりしている。キリスト教は神を愛するが、真宗は佛に愛される。愛の方向が双方向だったり、一方的だったりする。これは結構大きな違いだと思う。
赦しというファクターも似ている。ヨーロッパの宣教師が真宗を見てキリスト教そっくりと言ったという逸話があるが、本質的に似ているものなのかもしれない。
イスラム教はかじったぐらいだけれど、信仰というよりも、戒律に厳しいイメージがある。
他にも神道は、全てのものに神が宿っていると考える。このようなアニミズム的な信仰が、果たして超越者信仰と同じ霊性に基づいているのかは、わからない。
浄土宗に光明主義というのがあるんだけれど、それは弥陀「への」愛を念仏によって高めていって、阿弥陀仏と「合一」するという宗派である。こうなると聖道門やキリスト教神秘主義、スーフィズムとあまり変わらなくなる。
浄土教に絞って考えても、自ら修行して、その功徳を振り向ける宗派もあるし、念仏の功徳を振り向ける宗派もある。いろいろある。
なんかこう、「ブラフマン」みたいなものはあるのか?テーラワーダの悟りと、アドヴァイタの悟りは同じなのか?真宗の阿弥陀仏とキリスト教の神は同じなのか?分からない。分からないけど、僕はとりあえず念仏をしとこう。なむあみだぶつ
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