ヨルシカ 表現者=売春婦
俺は泥棒である。
往古来今、多様な泥棒が居るが、俺は奴等とは少し違う。
金を盗む訳では無い。骨董品宝石その他価値ある美術の類にも、とんと興味が無い。
俺は、音を盗む泥棒である。
春をひさぐ、は売春の隠語である。それは、ここでは「商売としての音楽」のメタファーとして機能する。
悲しいことだと思わないか。現実の売春よりもっと馬鹿らしい。俺たちは生活の為にプライドを削り、大衆に寄せてテーマを選び、ポップなメロディを模索する。綺麗に言語化されたわかりやすい作品を作る。音楽という形にアウトプットした自分自身を、こうして君たちに安売りしている。
俺はそれを春ひさぎと呼ぶ。——————ヨルシカ
過去のブログから引用する
【生きる事を受け入れたからには、売春を受け入れなければならない。売春は、生の根本要件だと思う。売春の特徴をあげよう。
@媚びる
A痴態を晒す
B対価を貰う
シオランが言っているように、売春にも程度があるんだろう。売春ゲージ、売春スペクトラムというものがある。
僕が売春ゲージが高いと思うのは、文筆家、アーティスト、画家、大臣、などだけれど、生きている限り、この「売春」からは逃れられないんだろう。「生きる」こととは、本来恥ずかしいことなんだろう。Twitterで流れてきたネタツイートにも「売春」を感じるし、オモシロ漫画にも売春を感じるし、生は全部、「恥ずかしい」。
売春と、自殺の間にスペクトラムがある。売春———自殺間に無限のグラデーションがあり、人はその中のどこかに位置付けられながら生きる。僕は、文学者などがよく自殺するのは、この売春に耐えられなくなったからであると思う。生を凝視し続けると、根底の売春が炙り出され、その売春を物語化するのが文学といえるが、その文学を物語るのもまた売春なので、最後には自殺するしかなくなる。もちろんこのブログを書くのも売春であるし、これをツイッターに貼りつけるのも売春である。みんなが売春婦を軽蔑してるのは、ただ、自らの売春性を隠すために、スケープゴートにしているだけなのかもしれない。】
このヨルシカの怪文書を読んで、人と話し合ったところ「表現なんか全部売春なんだから、これ以上話しても、表現者の悪口にしかならない」と言われた。僕が見つけたのは「座禅と念仏」だけど、それ以外にはまだ「純粋な表現」は見つかっていない。
虚栄心を満たすため、他者の視線を食べるために、体を売る売春婦たち。僕たちは彼らを「ピエロ」として消費すればいいのか?僕はまだ、純粋な表現というものはあると思う。
僕は「表現」がここまで「厭らしく」なってしまったのは、主に「ヘブライズム」のせいだと思う。そのヘブライズムの何が問題かというと、それは「主観性」の原理で動いているからだ。つまり、「神」のバカでかい「主観」が思想原理になっている。この「主観性原理」はヘブライズム以前にも、ピュタゴラス―プラトンの系譜で先鋭化していたらしいが、その主観性の原理が「表現」の原理にもなってしまった。
主観というのは、何かを「前に置く」ことだ。神が死んで、人間が神になったあと、神の主観が人間に譲渡され、人間は創造物を主観の「前に置く」ことができるようになった。芸術をよく「オナニー」ということがあるが、それは作品を「前に置いている」からだと思う。「前に置いて」7日間で、様々な「化粧」をする。7日間で大衆に寄せてテーマを選び、ポップなメロディを模索する。綺麗に言語化されたわかりやすい作品を作る。それが「厭らしさ」に繋がる。
近代の観念論のあたりから、人間の主観性がバグってきたという気がする。近代以前の禅画などを見ると、一つも厭らしさがない。仏像などを見ても、一つも厭らしさがない。ここには神から譲渡された「主観」がない。「自然」と感応した表現、というのは少し陳腐だけれど、「前に置く」という「主観性」に肩まで浸かっている現代人に、売春でない表現ができるとは思えない。
これはいつも書くことだけれど、芭蕉は「する句」ではなく「なる句」を作れと言っていたらしい。聖書は神の「主観性」によって、世界が作られるけれど、古事記には天地(アメツチ)から神が「成って」いると書かれている。「古池や 蛙飛び込む 水の音」芭蕉の自己主張というものは一切ない。「前に置いて」いない。けれども他者の「前に置く」ことは決定的な売春ではないのか?そうも思うけれど、彼らは「主観性」に首を絞められていなかったので、別の原理で作品を「発表」していたのかもしれない。それが「自然」だったのかもしれない。
宮沢賢治のアメニモマケズが雄弁に語っているように、宗教的表現は確かに売春ではない。けれどもそれ以外の売春ではない表現の可能性も考えていきたい。
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