人生入門

生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です 短歌も書いてますhttps://www.utayom.in/users/9552哲学書読書計画今まで読んだものプラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー今年と来年中に読むものハイデガー 西田幾多郎 カント フィヒテ シェリング ヘーゲル ショーペンハウアー ニーチェ バタイユ ベルクソン再来年中に読むものイタリア現代思想 アドルノ メルロ・ポンティ サルトル レヴィナス ヤスパース
生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です 

短歌も書いてます
https://www.utayom.in/users/9552

哲学書読書計画
今まで読んだもの
プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー

今年と来年中に読むもの
ハイデガー 西田幾多郎 カント フィヒテ シェリング ヘーゲル ショーペンハウアー ニーチェ バタイユ ベルクソン

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ メルロ・ポンティ サルトル レヴィナス ヤスパース

ヨルシカ 表現者=売春婦

俺は泥棒である。
往古来今、多様な泥棒が居るが、俺は奴等とは少し違う。
金を盗む訳では無い。骨董品宝石その他価値ある美術の類にも、とんと興味が無い。
俺は、音を盗む泥棒である。

春をひさぐ、は売春の隠語である。それは、ここでは「商売としての音楽」のメタファーとして機能する。
悲しいことだと思わないか。現実の売春よりもっと馬鹿らしい。俺たちは生活の為にプライドを削り、大衆に寄せてテーマを選び、ポップなメロディを模索する。綺麗に言語化されたわかりやすい作品を作る。音楽という形にアウトプットした自分自身を、こうして君たちに安売りしている。
俺はそれを春ひさぎと呼ぶ。——————ヨルシカ

過去のブログから引用する
【生きる事を受け入れたからには、売春を受け入れなければならない。売春は、生の根本要件だと思う。売春の特徴をあげよう。
@媚びる
A痴態を晒す
B対価を貰う
 シオランが言っているように、売春にも程度があるんだろう。売春ゲージ、売春スペクトラムというものがある。
 僕が売春ゲージが高いと思うのは、文筆家、アーティスト、画家、大臣、などだけれど、生きている限り、この「売春」からは逃れられないんだろう。「生きる」こととは、本来恥ずかしいことなんだろう。Twitterで流れてきたネタツイートにも「売春」を感じるし、オモシロ漫画にも売春を感じるし、生は全部、「恥ずかしい」。
 売春と、自殺の間にスペクトラムがある。売春———自殺間に無限のグラデーションがあり、人はその中のどこかに位置付けられながら生きる。僕は、文学者などがよく自殺するのは、この売春に耐えられなくなったからであると思う。生を凝視し続けると、根底の売春が炙り出され、その売春を物語化するのが文学といえるが、その文学を物語るのもまた売春なので、最後には自殺するしかなくなる。もちろんこのブログを書くのも売春であるし、これをツイッターに貼りつけるのも売春である。みんなが売春婦を軽蔑してるのは、ただ、自らの売春性を隠すために、スケープゴートにしているだけなのかもしれない。】
 
 このヨルシカの怪文書を読んで、人と話し合ったところ「表現なんか全部売春なんだから、これ以上話しても、表現者の悪口にしかならない」と言われた。僕が見つけたのは「座禅と念仏」だけど、それ以外にはまだ「純粋な表現」は見つかっていない。
 虚栄心を満たすため、他者の視線を食べるために、体を売る売春婦たち。僕たちは彼らを「ピエロ」として消費すればいいのか?僕はまだ、純粋な表現というものはあると思う。

 僕は「表現」がここまで「厭らしく」なってしまったのは、主に「ヘブライズム」のせいだと思う。そのヘブライズムの何が問題かというと、それは「主観性」の原理で動いているからだ。つまり、「神」のバカでかい「主観」が思想原理になっている。この「主観性原理」はヘブライズム以前にも、ピュタゴラス―プラトンの系譜で先鋭化していたらしいが、その主観性の原理が「表現」の原理にもなってしまった。
 主観というのは、何かを「前に置く」ことだ。神が死んで、人間が神になったあと、神の主観が人間に譲渡され、人間は創造物を主観の「前に置く」ことができるようになった。芸術をよく「オナニー」ということがあるが、それは作品を「前に置いている」からだと思う。「前に置いて」7日間で、様々な「化粧」をする。7日間で大衆に寄せてテーマを選び、ポップなメロディを模索する。綺麗に言語化されたわかりやすい作品を作る。それが「厭らしさ」に繋がる。
 
 近代の観念論のあたりから、人間の主観性がバグってきたという気がする。近代以前の禅画などを見ると、一つも厭らしさがない。仏像などを見ても、一つも厭らしさがない。ここには神から譲渡された「主観」がない。「自然」と感応した表現、というのは少し陳腐だけれど、「前に置く」という「主観性」に肩まで浸かっている現代人に、売春でない表現ができるとは思えない。
 これはいつも書くことだけれど、芭蕉は「する句」ではなく「なる句」を作れと言っていたらしい。聖書は神の「主観性」によって、世界が作られるけれど、古事記には天地(アメツチ)から神が「成って」いると書かれている。「古池や 蛙飛び込む 水の音」芭蕉の自己主張というものは一切ない。「前に置いて」いない。けれども他者の「前に置く」ことは決定的な売春ではないのか?そうも思うけれど、彼らは「主観性」に首を絞められていなかったので、別の原理で作品を「発表」していたのかもしれない。それが「自然」だったのかもしれない。

 宮沢賢治のアメニモマケズが雄弁に語っているように、宗教的表現は確かに売春ではない。けれどもそれ以外の売春ではない表現の可能性も考えていきたい。