ツァラトゥストラかく語りき 虚栄心
わたしの第二の処世術はこうだ。誇り高い人よりも、虚栄心がつよい人のほうを大事にする。
傷つけられた虚栄心はあらゆる悲劇の母ではなかろうか。だが誇りが傷つけられるならば、そこに誇りよりも良い何かが生まれいずるだろう。
生が楽しい見ものであるためには、その劇がうまく演じられなくてはならない。だがそのためにはよい俳優が必要だ。
すべての虚栄心がつよい人間が、よい俳優であることに気づかされた。彼らは演じ、そして見物人がよろこんでくれることを望む———彼らの意志は余すところなくこの意志の下にある。
彼らは舞台にあがってかりそめの自分を演ずる。わたしは彼らのそばにいて、その人生を見物することを望む。————憂鬱が癒されるから。
だから虚栄心がつよい人々を大事にする。彼らはわが憂鬱を治す医者であり、わたしが一つの演劇に引き付けられるように、わたしを人の世にかたくつなぎとめてくれる、
彼は自信を諸君から得たいと思っている。君たちの視線を食べて生きている。君たちの手から賞賛をもらってむさぼり食う。
その耳にこころよい嘘をつけば、でたらめでも諸君を信じる。こころの奥底でこうため息をついているから。「このわたしが何だろう。」———————処世術について
ニーチェを読むとハッとさせられる文章に出会うことがある。ニーチェ自身は勿論、こういう虚栄心の強い「俳優」などという薄っぺらな人間ではなく、「仮面」を被った深い精神、つまりこじらせているのだけれど、ここでは他人の「虚栄心」を憎むのではなく、演劇として楽しめ、と言っている。ニーチェは勿論、虚栄心をそのまま直情的にぶちまけるような、そんな浅い精神ではないが、ここでは「処世術」として語っている。
僕個人は、自分の虚栄心の許せなさ、から他人が無反省に虚栄心丸出しで、ネットやテレビで「でしゃばっている」のが本当に許せなかったんだけれど、この処世術は、かなり僕に有効そうだ。自分の中で「僕は自分の虚栄心に潔白で、それを抑えに抑えているのに、動物みたいに虚栄心丸出しの人間がずるい」という気持ちが根深く生えているんだけれど、これからは彼らを「俳優」だと見よう。ツイッターで有名人になろうとしている/なっている、虚栄心丸出しの君たち、ツイッターで小難しいことを言っている衒学趣味の人たち、絶望から詩に逃げたお前、絶望から歌に逃げたお前、自撮り依存のお前、は全員、大衆の視線を食べながら生きていて、心の奥底では「このわたしが何だろう」と思っている。他者の視線に支えられた自己など幻想にすぎない。
ニーチェの格率は「汝は汝のあるところのものとなれ」だが、それは虚栄心に踊らされている「俳優」には無理な相談だろう。僕は人間が己自身になるのは「無限者の視線」に照らされて即自化したときだと思うけれど、神を殺したニーチェは己自身になれたんだろうか。
なんにしても、いい言葉に出会った。虚栄心丸出しで舞台に上がっている人を、憎む必要はない。彼らは人の視線を食べている役者だ。演劇を楽しめばいい。僕みたいな人にはよく効く「処世術」だと思う。
父親の兄貴、つまりおじさんと2人きりで一度だけドライブしたことがあるんだけれど、別れ際に「まっすぐ見ろよ。裏とか考えてたらキリがないから。言葉をまっすぐ見ろ」と言われたことがある。僕とほとんど交流のないおじさんだけれど、僕のような精神構造を持っていたのだと思う。そしてそれを「処世術」にしていたのだろう。僕は「処世術」にはしたいけどやっぱり人間の「裏」を「憎む」ことはなしに(できれば楽しんで)、凝視し続けることは、したい。
コメントを書く...
Comments