何者にもなれない
と嘆いている友達がいるんだけれど、僕は僕である。僕は、僕であることしか「ありえない」ことのほうが気持ち悪い。
松本人志は松本人志でしかありえないし、田中太郎は田中太郎でしかありえないし、僕は山中大地(本名)でしかありえない。僕の「山中大地性」みたいなものからは、死ぬまで逃れられない。
こういう感覚は哲学者の永井均やお坊さんのネルケ無方さんにもあったようで、「分かる人には分かる」し「分からない人には分からない」感覚なのだと思う。僕は僕が山中大地であることが「気持ち悪い」。何者にもなれないどころか、僕は山中大地でしかない。キリスト教の異端には「肉体は悪魔の檻。人間は生まれると檻に閉じ込められる。」という思想があるらしいが、その教義を思いついたのは僕たちみたいな人だったのだろうと思う。永井均が永井均でしかないこと、ネルケ無方がネルケ無方でしかないこと、僕が山中大地でしかないこと、これに「驚き」を感じる人が哲学者になるのだと思う。僕は「気持ち悪さ」しか感じない。
名前を呼ばれても、鏡を見ても「それ」が「僕」だと思えない。でも僕は「それ」でしかありえない。「それ」が痛がったら僕も痛いし、「それ」が疲れていたら僕も疲れる。
山中大地ではない「僕」とはなんなんだろう。思考?自意識?
大無量寿経に「身自ら之を当(う)け、代わる者あることなし」という文言がある。僕たちの状況をよく表している。お釈迦様も阿弥陀仏も「これ」にいる「僕」の身代わりをすることはできない。
何者にもなれない、という根源には、「俺は俺でしかありえない」という気持ち悪さがあるんじゃないか。そっちのほうが根本問題だと思う。
松本人志は松本人志でしかありえないし、田中太郎は田中太郎でしかありえないし、僕は山中大地(本名)でしかありえない。僕の「山中大地性」みたいなものからは、死ぬまで逃れられない。
こういう感覚は哲学者の永井均やお坊さんのネルケ無方さんにもあったようで、「分かる人には分かる」し「分からない人には分からない」感覚なのだと思う。僕は僕が山中大地であることが「気持ち悪い」。何者にもなれないどころか、僕は山中大地でしかない。キリスト教の異端には「肉体は悪魔の檻。人間は生まれると檻に閉じ込められる。」という思想があるらしいが、その教義を思いついたのは僕たちみたいな人だったのだろうと思う。永井均が永井均でしかないこと、ネルケ無方がネルケ無方でしかないこと、僕が山中大地でしかないこと、これに「驚き」を感じる人が哲学者になるのだと思う。僕は「気持ち悪さ」しか感じない。
名前を呼ばれても、鏡を見ても「それ」が「僕」だと思えない。でも僕は「それ」でしかありえない。「それ」が痛がったら僕も痛いし、「それ」が疲れていたら僕も疲れる。
山中大地ではない「僕」とはなんなんだろう。思考?自意識?
大無量寿経に「身自ら之を当(う)け、代わる者あることなし」という文言がある。僕たちの状況をよく表している。お釈迦様も阿弥陀仏も「これ」にいる「僕」の身代わりをすることはできない。
何者にもなれない、という根源には、「俺は俺でしかありえない」という気持ち悪さがあるんじゃないか。そっちのほうが根本問題だと思う。
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