カフェイン | 人生入門

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

カフェイン

 歯医者のせいで朝早く起こされて、眠気がひどかったので、モンスターエナジーというエナジードリンクを初めて飲んだ。眠気が凄かったのに、眠気が吹き飛ぶどころか、やる気がみなぎってきて、その日は存在と時間を200ページ読むことができた。カフェインの作用機序は詳しくないけれど、脳みそのどっかに働いて物質が出てどじゃーんってなるんだろう。
 メンヘラ界隈の女の人が、脳みそは素粒子であって、それ以上でもそれ以下でもなく、その機序で、自分は精神が鬱になり、本当にそれ以上でも以下でもない、素粒子の歪みが自分の鬱だ、と遺書に書いてあった。人間は物質の奴隷なのか?現代の精神医学を見ていると、そう思いたくなる。
 僕は17歳のころに初めて抗不安薬を飲んだんだけれど、その時に(唯物論に屈してしまった…)とネットの友達と笑いながら言っていた。脳みその物質で「心」が変わるのなら、心は物質に還元できるんだろうか。

 意識の哲学に、意識随伴説というのがあるんだけれど、その説は意識は自分の行動を「モニター」しながら随伴しているだけで、意志決定などには何も参加していないという説だ。脳みその機械的な動きが全て人間の行動を決めて、意識はモニターするだけだ。もしそうだとして、じゃあ、この身体とは何なのか?

 この身体は、福岡伸一教授によると動的平衡であるらしい。物質のエネルギーの流れ、逆エントロピー、ネゲントロピーが身体であって、神秘的な「生気」というものはないらしい。けれど、ここまで科学的に「神秘」をそぎ落としても、どうしても「宗教的」とでもしか言えない事実がある。それは、自分の身体は自分の身体ではないということだ。人間の細胞は3年ぐらいで全て入れ替わるらしいけれど、その細胞一つ一つが、僕のものではない。他の生命を、殺生して奪った「物質」が僕の身体になっている。今キーボードを打っているこの指も、この前食べた魚のたんぱく質かもしれない。目も手も耳も鼻も、足も全て他の生き物の殺生においてなりたっている。僕の身体は、「殺す身体」であり、「殺された身体」である。
 
 そしてこの「殺された身体」からできた「殺す身体」は、心臓を打っている。呼吸をしている。たくさんの生き物の死から生まれたこの身体は、今も「生きたい」と心臓を打っている。意識はコーヒー豆で変わるような脆弱なものかもしれないけれど、心臓は鼓動を打っている。「僕の意志」とは全く無関係に。「身体」は生きたいのだ。殺してきた僕たちに、自殺する権利はあるんだろうか。 

 親鸞聖人は、遺言に「親鸞、閉眼せば、賀茂河にいれて魚に与うべし。」と言ったらしい。「殺された身体」からできた「殺す身体」もまた、「殺される身体」になっていく。こういうのを、ある科学者は科学的輪廻と言ったらしい。この世は「苦」だ。身体を脱ぎ捨てて、殺されない世界、殺すことのない世界へ、行こう。
 

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