カフェイン
歯医者のせいで朝早く起こされて、眠気がひどかったので、モンスターエナジーというエナジードリンクを初めて飲んだ。眠気が凄かったのに、眠気が吹き飛ぶどころか、やる気がみなぎってきて、その日は存在と時間を200ページ読むことができた。カフェインの作用機序は詳しくないけれど、脳みそのどっかに働いて物質が出てどじゃーんってなるんだろう。
メンヘラ界隈の女の人が、脳みそは素粒子であって、それ以上でもそれ以下でもなく、その機序で、自分は精神が鬱になり、本当にそれ以上でも以下でもない、素粒子の歪みが自分の鬱だ、と遺書に書いてあった。人間は物質の奴隷なのか?現代の精神医学を見ていると、そう思いたくなる。
僕は17歳のころに初めて抗不安薬を飲んだんだけれど、その時に(唯物論に屈してしまった…)とネットの友達と笑いながら言っていた。脳みその物質で「心」が変わるのなら、心は物質に還元できるんだろうか。
意識の哲学に、意識随伴説というのがあるんだけれど、その説は意識は自分の行動を「モニター」しながら随伴しているだけで、意志決定などには何も参加していないという説だ。脳みその機械的な動きが全て人間の行動を決めて、意識はモニターするだけだ。もしそうだとして、じゃあ、この身体とは何なのか?
この身体は、福岡伸一教授によると動的平衡であるらしい。物質のエネルギーの流れ、逆エントロピー、ネゲントロピーが身体であって、神秘的な「生気」というものはないらしい。けれど、ここまで科学的に「神秘」をそぎ落としても、どうしても「宗教的」とでもしか言えない事実がある。それは、自分の身体は自分の身体ではないということだ。人間の細胞は3年ぐらいで全て入れ替わるらしいけれど、その細胞一つ一つが、僕のものではない。他の生命を、殺生して奪った「物質」が僕の身体になっている。今キーボードを打っているこの指も、この前食べた魚のたんぱく質かもしれない。目も手も耳も鼻も、足も全て他の生き物の殺生においてなりたっている。僕の身体は、「殺す身体」であり、「殺された身体」である。
そしてこの「殺された身体」からできた「殺す身体」は、心臓を打っている。呼吸をしている。たくさんの生き物の死から生まれたこの身体は、今も「生きたい」と心臓を打っている。意識はコーヒー豆で変わるような脆弱なものかもしれないけれど、心臓は鼓動を打っている。「僕の意志」とは全く無関係に。「身体」は生きたいのだ。殺してきた僕たちに、自殺する権利はあるんだろうか。
親鸞聖人は、遺言に「親鸞、閉眼せば、賀茂河にいれて魚に与うべし。」と言ったらしい。「殺された身体」からできた「殺す身体」もまた、「殺される身体」になっていく。こういうのを、ある科学者は科学的輪廻と言ったらしい。この世は「苦」だ。身体を脱ぎ捨てて、殺されない世界、殺すことのない世界へ、行こう。
メンヘラ界隈の女の人が、脳みそは素粒子であって、それ以上でもそれ以下でもなく、その機序で、自分は精神が鬱になり、本当にそれ以上でも以下でもない、素粒子の歪みが自分の鬱だ、と遺書に書いてあった。人間は物質の奴隷なのか?現代の精神医学を見ていると、そう思いたくなる。
僕は17歳のころに初めて抗不安薬を飲んだんだけれど、その時に(唯物論に屈してしまった…)とネットの友達と笑いながら言っていた。脳みその物質で「心」が変わるのなら、心は物質に還元できるんだろうか。
意識の哲学に、意識随伴説というのがあるんだけれど、その説は意識は自分の行動を「モニター」しながら随伴しているだけで、意志決定などには何も参加していないという説だ。脳みその機械的な動きが全て人間の行動を決めて、意識はモニターするだけだ。もしそうだとして、じゃあ、この身体とは何なのか?
この身体は、福岡伸一教授によると動的平衡であるらしい。物質のエネルギーの流れ、逆エントロピー、ネゲントロピーが身体であって、神秘的な「生気」というものはないらしい。けれど、ここまで科学的に「神秘」をそぎ落としても、どうしても「宗教的」とでもしか言えない事実がある。それは、自分の身体は自分の身体ではないということだ。人間の細胞は3年ぐらいで全て入れ替わるらしいけれど、その細胞一つ一つが、僕のものではない。他の生命を、殺生して奪った「物質」が僕の身体になっている。今キーボードを打っているこの指も、この前食べた魚のたんぱく質かもしれない。目も手も耳も鼻も、足も全て他の生き物の殺生においてなりたっている。僕の身体は、「殺す身体」であり、「殺された身体」である。
そしてこの「殺された身体」からできた「殺す身体」は、心臓を打っている。呼吸をしている。たくさんの生き物の死から生まれたこの身体は、今も「生きたい」と心臓を打っている。意識はコーヒー豆で変わるような脆弱なものかもしれないけれど、心臓は鼓動を打っている。「僕の意志」とは全く無関係に。「身体」は生きたいのだ。殺してきた僕たちに、自殺する権利はあるんだろうか。
親鸞聖人は、遺言に「親鸞、閉眼せば、賀茂河にいれて魚に与うべし。」と言ったらしい。「殺された身体」からできた「殺す身体」もまた、「殺される身体」になっていく。こういうのを、ある科学者は科学的輪廻と言ったらしい。この世は「苦」だ。身体を脱ぎ捨てて、殺されない世界、殺すことのない世界へ、行こう。
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