表現の誠実さについて
ヒップホップ文化では「リアル/フェイク」ということがやかましく言われる。結構ニュアンスで言ってるっぽいけれど、僕は表現にもリアルとフェイクはあると思う。
表現というのは、基本的に「フェイク」だ。「自分の作品を他人に見せる」という行為は、厭らしいに決まっている。「ほめられたい」「金が欲しい」「いさおしが欲しい」
だから、表現をするには、表現について、「否定」をしなければならない。僕は、作品などよりも、作者の生き方のほうを重視してしまう。「自分のオナニーを他人に晒して褒めてもらう」という行為を、どういうウルトラCで「誠実」にまで持っていくのか?
一つは、「詠み人知らず」である。「名前」を否定する。誠実らしい。
一つは、他者について、書く。言行録である。誠実らしい。
一つは、超越者について書く。自我の否定。何かを讃嘆するのは「厭らしく」ない。
一つは、生前に発表しない。カフカや宮沢賢治だ。
一つは、筆を折ることだ。アルチュールランボーだ。
一つは、自我を否定した作品を作ることだ。松尾芭蕉だ。
一つは、純粋な表現欲で作品を作ることだ。アウトサイダーアート。
一つは、作品を発表しないことだ。僕はこの種の人が、歴史に何人も埋もれているという希望を持っている。
ストレートに「表現」をするのは、誠実ではない。どこかに「否定」の契機がないと、フェイク野郎になる。
表現というのは、基本的に「フェイク」だ。「自分の作品を他人に見せる」という行為は、厭らしいに決まっている。「ほめられたい」「金が欲しい」「いさおしが欲しい」
だから、表現をするには、表現について、「否定」をしなければならない。僕は、作品などよりも、作者の生き方のほうを重視してしまう。「自分のオナニーを他人に晒して褒めてもらう」という行為を、どういうウルトラCで「誠実」にまで持っていくのか?
一つは、「詠み人知らず」である。「名前」を否定する。誠実らしい。
一つは、他者について、書く。言行録である。誠実らしい。
一つは、超越者について書く。自我の否定。何かを讃嘆するのは「厭らしく」ない。
一つは、生前に発表しない。カフカや宮沢賢治だ。
一つは、筆を折ることだ。アルチュールランボーだ。
一つは、自我を否定した作品を作ることだ。松尾芭蕉だ。
一つは、純粋な表現欲で作品を作ることだ。アウトサイダーアート。
一つは、作品を発表しないことだ。僕はこの種の人が、歴史に何人も埋もれているという希望を持っている。
ストレートに「表現」をするのは、誠実ではない。どこかに「否定」の契機がないと、フェイク野郎になる。
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