祈りという孤独さ 鐘 | 人生入門

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祈りという孤独さ 鐘

 稲城選恵和上が常に強調されているところによると、浄土真宗には「祈り」がない。祈りとはなんなのか?稲城選恵和上によると、「神様は寝ている」らしい。神社に行くと、お賽銭箱の上に、がらんごろんと鳴らす、「鐘」がついている。人間は、神様に何かを祈るとき、あの「鐘」によって、神様を「起こす」。神様は、「鐘」が鳴るまで寝ていて、それから人間の「祈り」を聞く。そして「祈り」が届くかどうかは、分からない。神様が全て願いを叶えるならば、僕の母親は死ななかったはずだ。
 浄土宗の西山派にも、この「鐘的要素」がある。西山派では、浄土真宗と違って、「南無阿弥陀仏」が、母を呼ぶ、子の声であると解釈されている。だからこれは、「祈り」である。神社にある「鐘」となんら変わりない。祈りが届く保証は、ない。

 レヴィナスの解説書を読んでいて、「全ての言葉は祈りである」という文章に出会った。これは大変なことを言っているな、と思った。僕なりに咀嚼してみる。
 僕は、言葉のことをよく「鳴き声」という。それは、全ての言葉には行為遂行的な次元があると思っているからだ。「この人と結婚します」というのはその言葉によって行為が遂行されているけれど、僕は全ての言葉はこの行為遂行的、パフォーマティブな次元を持っていると思う。「ここは僕が奢るよ(だから今度SEXをさせてくれ)」「危ない!(よけて!)」「この前こんな面白い話があってね…。(俺を面白いと思ってくれ)」「ブスすぎて死にたい(そんなことないよって言って)」このように、全ての言葉には、「祈り」がある。分かりやすく言い換えると、言葉は、「他者」という神様を動かそうとする「鐘」である。そして、その祈りが届くかどうかは保証がない。絶対的に所有できない、僕たちから無限に隔たっている他者は、僕たちが言葉で「鐘をつく」まで、寝ている。そして、女にご飯を奢っても、ホテルに行ってもらえる確証はない。
 「独生独死独去独来」という言葉の深い意味は、「他者に祈りが通じない」ということではないんだろうか。

 絶対的に自己から隔たっている他者に、「祈り」を捧げても、それは聞き受けられるか分からない。
 一番自己に近い場所から、「助けるから、私の名前を称えてくれ」と僕たちに祈っているのが、阿弥陀仏なのだった。「祈る存在」は、孤独である。相手は「寝ている」から。「祈る主体」から「祈られる客体」になったとき、孤独は、癒えるのだろう。

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